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  • 2024.01.09 Tuesday
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6月上旬は九州にいるらしい



■1■ひっそりと書き込んでみよう。来月6月の2日夜に、空から福岡に入ることにした。本来ならば6月21日の奈良大神神社においての奉納記念講演会の打ち合わせのために、BOBと博多ですり合わせをするというのが第一目的で、4日〜8日の間、温泉込みで九州方面を侵攻しようと考えていたのだった。

■2■名古屋ー博多間は新幹線でも18000円以上するし、フツーの飛行機だと25000円は軽く超える。しかしジェットスターの4日便は1万円を切っていた。よし、これで行くかと思ったが、2日前の値段が目に入った。セールス中で3990円ぽっきり。諸経費払っても、深夜高速バスの1万余円よりも安いのだ。...

■3■原稿をまとめたり画像を制作したりするのは、基本的にネット環境とパソコンがあればどこでもできる。福岡のビジネスホテルでもいいし、安い温泉旅館に行ってもいい。4日〜8日の間にミッションは、ヌースコーポレーションに挨拶訪問をするのと、阿蘇の幣立神宮の奉納打診に同行することだけだ。

■4■あとの空いた時間は個人的には温泉に滞在したいものだ。去年はBOBを地獄送り(阿蘇の地獄温泉に一緒に行くプラン)とか、黒川温泉徹底攻略とか騒いでいたが、去年の暮れからの自分自身の身体的不具合が勃発してからは、趣味だけでなくマジで身体のケアのために温泉を視野に入れることにした。

■5■この度の熊本の大地震の後なので、はしゃぎながらの温泉行は控えるつもりだが、元々温泉合宿をたくさんやりたいという個人的希望もあり、もし時間と興味が抱き合わせである人は、もし巡り合えたらだけれど、温泉ご一緒などできたら素敵ですね。なお同行者はチームASUKAの一部メンツの予定。

■6■ヌースコーポレーション表敬訪問(^^)とか、幣立神宮の奉納打診とかは、おいそれと誰でも参加可能というわけではないと思うけれど、facebook上の日々の発信などを見たりして、遭遇するのもスリリングかと。あと、当方は自家用車に乗っての移動だと思います。車連ねての同行や分離も面白そうです。

■7■私自身は神社や神道とはほとんど縁がないのだけれど、日本語や日本人について考えると避けて通れないので縄文や神道を調べていると、巻き込まれ型参入と自分で呼んでいるが、春分秋分夏至冬至などの節目に由緒正しい神社への奉納行事等に参加することになったりしていて、現地訪問は欠かせない。

■8■ひっそり書き込むつもりが、つい長文になってしまった。ツッチーが頑張って5月3日〜6日の飛鳥での長時間語りを編集してネット上にアップし続けてくれたシリーズがひと段落したので、つい一安心して思わず6月の福岡行きのチケットゲットの顛末から、ついこまごまと書き連ねてしまったためだ。

■9■まあ道中の旅日記とかそこそこネットに流し込みますので、できればお楽しみください。夏至の日の大神神社の記念講演の大筋はきまっているのだけれど、テーマが「オオモノヌシ」だけに、実はどこまでできるか結構なプレッシャーがある。個人的にはオオモノヌシは過去でなく日本の未来なんだよね。















 

飛鳥はなぜアスカと読むの?



■1■今日、熊本まで車で帰る途中に、以前ほしいと挙手していたディジュリドゥーを、私の誕生日祝いにわざわざ持ってきてくれた人の名前が「飛鳥」なのもあって、「明日香」の枕詞が「飛ぶ鳥」であることや、なぜ「飛鳥」と書いてアスカと読むのかを、『三輪山と古代史』を参考に考えてみようと思う。

■2■万葉集の中に「飛ぶ鳥の明日香」という枕詞と地名で読まれた歌は4首ある。古語辞典は無責任掛かり方不明と言う。「飛鳥と書いてアスカと読むのは、意味を取って訓みならわしたもの」という物言いは、何の説明にもなっていない。江戸時代初期から現在まで、20を超える様々な説が唱えられている。

■3■大浜厳比古は「三輪山の山容が翼を広げて明日香へ飛来する鳥の姿に見えるから」という説を主張する。持統天皇陵の東端に立ち、三輪山一体を見渡すと、三輪山を胴体にして左に龍王、右に巻向山が翼を成して大きく舞い明日香を包む、まさに「飛ぶ鳥の明日香である」と自らの感動的な体験から語る。

■4■もちろんこの説にもツッコミが入る。飛ぶ鳥を呈するのなら「飛ぶ鳥の三輪山」の方が正しいのではないかと。岡本健一が「明日香の3文字の中に鳥が飛ぶ」という別解を示している。明日香の中の「日」の字は元々〇の中に〜」入る形であり、「〜」の形は飛ぶ鳥を表すという字源を知っていたと言う。

■5■中国の神話学者・劉城淮は言う。中国上古の人は太陽黒点を発見した。古来の太陽紋は円の中に1つの黒点を書いて太陽の黒点を表している。これに基づいて「日」の字を創出者は円の中に〜と写した。「〜」はすなわち飛鳥の象(ひちょうのかたち)である。一般の人は太陽を金烏・陽烏と呼んでいる。

■6■そして「明日香」の地名を表す文字の中に、1羽でなく3羽の鳥が飛んでいることにも飛鳥の人たちは気が付いた。「明」にも「香」にも確かに「日」という字が含まれている。聖徳太子の時代には「阿須迦」と書かれていたが、天武朝になって「明日香」が生まれ、持統朝になって飛鳥が登場したのだ。

■7■650年頃制作された「玉虫厨子」の中には「陽仲の金烏」と「月中の白兎」が描かれている。天武朝の人々は太陽の中に3本足の烏が住む神話を強要として知っていたと考えられる。熊野では烏は神の使いだが、日本サッカー協会のエンブレムが、ボールを持つ3本足の八咫烏」名のはすでには有名である。

■8■枕詞と地名のセットの長谷の泊瀬(ながたにのはつせ)から枕詞の長谷がハセとなり、また「春日の霞処(はるひのかすが)」から枕言葉の春日そのものをカスガと訓むようになったように、飛ぶ鳥の明日香も飛鳥でアスカと読むようになり、713年に地名表記が2文字に統一されると飛鳥が定着していく。














 

日本の食事は神が神を食べる神事



■1■日本には何でもある。世界中の食べ物が、その美味さも兼ね備えてほとんど揃っている。世界中のファッションの最先端が様々に入手できる。私たちはそれが当たり前だと思っているが、他国からは羨ましがられている安全や清潔、誠実さや譲り合いなどの世間を共有している。それは単なる幸運なのか?

■2■ここ数十年間に日本人は身体も精神も大きく変貌している。ただ一様に身長が伸び、性格が穏やかになったのではなく、画一的と言われがちな私たち日本人の身体的特徴も心的な性格も、今までにないほどその幅が広がった。高潔極まりない人から、悪魔のように邪まな者まで、同一空間にいる不思議さ。...

■3■あにまんだら氏の「種我同一論」の概念を拝借して、種の「生物種」を「人種」に置き換えれて表現すれば、まるで世界中の様々な人種の特徴の反映が、この島国の中に揃っているかのように思われる。そしてそれは人間の個体の内面として見ても、幅が広く奥行きは計り知れない。この日本と言う世界。

■4■しかしこの短期間における激変は、1万5千年、2万年以前からの長きに渡る繋がりの先端に接続している。例えば日本語の食前の「いだきます」という言葉は、食材を運んだ人や調理してくれた人への感謝ではなく、先ず食材そのものへの「命をいただきます」という感謝の気持ちが込められている。

■5■欧米の言語には神の恵みに対する食前の祈りはあるが、この食材への感謝の言葉である「いただきます」に相当する言葉がない。海に囲まれ森林豊かなこの列島は、多種多様で豊穣な食材に恵まれてはいたけれど、それらを徒に貪ったり粗末に扱ったりせず、食事そのものを祈りとし、神事としてきた。

■6■手を合わせ目を閉じて「いただきます」と言う、言わば音なき一礼一拍手の仕草は神前のニ礼二拍手に通じる。食材もまた神である。食事とは単なる生命活力のチャージではなく、動植物の命を摂取して生を伸ばす者の、大自然との命の交換の儀式であり、良く噛み己れの血肉とする「神事」でもあった。

■7■そして食後の「ごちそうさま」は食材を作ってくれた人や食事を作ってくれた人に対する感謝の言葉である。言葉は時代により変わってきたかも知れない。しかしその言葉に乗せる思いや祈りは、私たちの命の繋がりの中で、絶えることなく1万年以上前から食事の度に繰り返し唱え続けられてきたのだ。

■8■青森の大平山元I遺跡から出土した土器は、信頼の置ける放射性炭素年代測定法により、それが約1万7千年前の世界最古の土器であることが判明した。そしてその土器の内側に付着していた炭水化物から、食事の煮炊きに用いられていたことも分かっている。人類最初の調理の揺ぎなき証拠なのである。

■9■神道が発達したのは、米を中心とする農耕社会に移行してからと考えられているが、その起源は遥かに以前の縄文に遡れる。そして古来より日本人にとっては、食事が神事でもあった。現代ではそれを祭りの後等の直会と言うが、ひとたび神に供え祈りを捧げてから、そのお下がりとして頂くものだった。

■10■今ではそのようなことを意識して食事をする人は稀れだろう。敢えてする必要もない。しかしそれらは未だ消え去ることなく、私たちの言葉や仕草や遥かなる記憶の中に残っている。完全に忘れ去られる前に、ふとそれらを思い出したら、記憶の中のかみあわせを意識しつつ食事をすることもできるのだ。

■11■縄文以前の旧石器時代から絶えることなく繋がってきた私たち日本人の心身が現在前代未聞の変化を来していると言ったが、それは他人事ではなく私たち1人1人の内部の出来事でもある。今ここでこれまでの歴史や伝統を糧にして、神道からすらもはみ出した新しい領域に突入しているのかも知れない。















 

神道、この不思議なもの(1)



■1■日本語と日本人を考える場合、やはり日本固有のものである神道は外せない。神道は実に長い時間をかけて形成されてきた日本土着の民族宗教だ。仏教・儒教・道教・キリスト教・イスラム教など、様々な宗教に出会い影響も受けてきた。しかし名称だけをみても神道は神道であり、何々「教」ではない。

■2■神道とは何か?と問われた時、学者や専門職の者は自らの言葉でそれなりに語ることはできるだろう。しかし多くの人が納得できる説明ができる者は殆どいないだろう。神道が複雑で難解だからではない。むしろシンプル過ぎて説明がしがたいのだ。神道神学や古神道という言い方すら中世以降のものだ。

■3■神道には創始者もしくは開祖がいない。宗教的な教義もない。救済という概念すらもない。そもそも最初は神社の拝殿や本殿もなかった。ルーツをずっと辿っていけば、各地の社殿が土地に定まるずっと以前から祭祀はあり、それは屋外の巨石や磐座のある場所で行われていた。建物の中では決してない。

■4■岡田荘司編の『日本神道史』には、玄界灘の沖合にある沖ノ島と奈良の三輪山の例が載っている。沖ノ島では祭祀は最初、島内の巨岩の上で行われていたが、やがてその祭祀の場は岩陰に移り、さらには半露天を経て露天で行われるようになった。一貫して神殿その他の建物の中では行われていなかった。

■5■三輪山もまた、最初は山中の磐座で祭祀が行われていた。山中には非常に多くの巨石がある。禁足地内は発掘ができないが、周辺にも祭祀が行われた遺跡がある。三輪山の麓にはいつ創建されたのか定かでない大神神社が鎮座しているが、祭祀が始まったのはさらにその遥か昔であることは確かであろう。

■6■仏教もキリスト教も他の様々な宗教も、信じる者の「救済」を謳う。しかし神道には救済という概念がない。八百万の神と一神教の神に同じ言葉を用いるのも混乱の元である。後になって救済論を確立せんとする動きや、救済を前面に押し出す神道系新宗教も現れたが、それは後付けであり主流ではない。

■7■日本の神は天地創造の神ではない。『古事記』を見ても、神々はすでにある高天原にただ現れてくる。最初に現れた神々は何もしないまま消えていった。地上を人の住めるようにせよと言われたイザナギとイザナミは、矛でかき混ぜはしたが、オノゴロ島も自然に凝り固まってできた島という意味である。

■8■八百万の神もただ非常に沢山なだけでなく増殖していく。人間を神として祀るのにどこかの許可を得る必要もない。もちろん納得できる由緒がなければただ人界から消えていくだけだ。単に人格神的と捉えようとしても無理がある。どれだけ分け御霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も同じ働きをする。

■9■トヨタの「カイゼン」は世界的に通用する言葉だが、神道は基本的に進歩も改良もない。昔から少しも変わらぬまま、受け継いでいくということが根本的に重要なのだ。そして私たちの現代のものの考え方では解せない様々なものたちも、露わにされることなく歴史を超越してひたすら引き継がれてきた。

■10■それでも私たちが神社に出向く場合、心を整え身を清める。社殿に赴く前に、手水舎で手を洗い口を漱ぐ。だがそれは成すべき戒律ではない。神道には戒律もない。ただ穢れをなくして参拝するのは自然な流れに思える。儀式に臨む神主が精進潔斎するのもまた、規則だからではなく自主的な行為なのだ。

■11■神道は他の宗教と異なり布教はしない。国内でもそうだ。私たちは家の宗派に沿った仏教徒とも言えるが、自分は無宗教だと捉える人も多い。しかし参道を通りって鎮守の森に入り、鳥居を潜って社殿の前に立つと、程度の差こそあれ自然に居住まいを正す。そしてゆっくり神とは何か考え始めたりする。

■12■そもそも神道のことを深く考えようとすると、いつしか眠ったような状態になりがちだ。拝殿の前に立ち手を合わせると、思考も情念も静かになっている。どうも神道は現代的な論理や思考に基づいた脳の使い方とは異なる部位も用いるようだ。もちろん現代の私たちの意識の在りようもは否定されない。

■13■必要を感じなければ、わざわざ参拝する必要もない。日々のお勤めのように心の中で手を合わせる必要もない。では日本人にとっての神とは何か。自分が自分と自覚する自己領域と、それからはみ出してはいるが場とも分離してはないより大きな領域とが上手く「かみあう」ことそのものとも捉えられる。

(この項、続く…多分)














 

お笑いBOBおろし(いいのか?)



■1■飛鳥イベント中のある日の夜、三輪のAKIさん宅での一件。普段煙草を吸わないAKIさん、突然スミスミに煙草をもらい「BOBを下ろす」と言う。「えーっ、BOBまだ生きてんじゃん。普通イタコとかが下ろしたりすんのって、死人とか神仏精霊なんじゃねーの?」とその発想自体に仰天する私。

■2■おかまいなしに何やらその領域で頑張るAKIさん。「BOB、そこまで降りてきているんだけれど、もう少し」しばらくそのまま頑張っているAKIさん。霊的体質というよりむしろ古神道の呪力なのか。目には見えないが引きずり降ろされないよう、BOBが必死に堪えているようなイメージがする。

■3■BOBは赤系の色が好きで、レクチャーの時の服装は黒いジャケットと赤いパンツのことが多いらしいが、その赤いパンツを下ろす下ろさないという見えない攻防が続き、タバコの燃焼もフィルター近くまできた。ついにBOBは、蛇が脱皮するようにパンツをスルリと脱いで、辛うじて脱出したらしい。

■4■巻き込まれ型の奇妙な臨場感。「パンツは白い霧となって成仏した」とAKIさんが冷静に言う。一体何なんだ、こんな生きている人間を当たり前に下ろすという世界観は。ふと先日の東京でのヌースアトリウムに体調不良で不参加だったのに、ずっと魂で参加してくれていたと言われた事を思い出した。

■5■そのほぼ同時刻、私はそんなことを忘れて自分の原稿をマイペースで書いていいたはずなのに。ゆっくり寛いでいて、参加したつもりは全く毛頭ない。でも確かにいてくれたと後日言われた。下ろすとか召喚するという言葉で呼び出さたという者は、その本来の当人たちの意識はお構いなしの別物なのか。

■6■呼び出される生き霊の一部?当の本人も自分が自分だと意識していない自分という領域も充分あるわけだが、パラレルワールドの自分のように多数の世界の1つから呼び出された別の自分という捉え方もありかも知れない。科学的表現だと有か無かの二択だが、豊かで無尽蔵なその中間帯域は有りそうだ。

■7■神道世界ではそのようなことが上代から普通に行われてきたし、今でもあるような気がしてきた。三輪山の麓で生まれ育ったAKIさんには、そんな世界がむしろ自然のようだ。西洋的論理と知性で表現するとパラドキシカルだが、そんな相互断絶していない自己他者問題的領域もないとは言い切れない。

■8■しかしそんな領域に大人しく絡め捕られぬであろうBOBが、生身でAKIさんと対峙しているイメージをしてみた。、AKIさんが眼前のBOBを下ろそうとする。BOBも「おーっと負けないぞっ!」と、AKIさんを下ろそうとする。やがて互いに相手を下ろしたまま、2人は話し始めるのである。

■9■いや待て、待ていーっ。互いが互いを下ろして、そのうえで対等に話を始めなくてもいいわいっ。わざわざ別に下ろしあった上でなくていいから、そのままで対等に話をしてくれよーっ。第3者的視座からは、人称とか自己他者問題とかがぐっちゃぐちゃになっちゃうから。と言うよりそれが目的なのか。

■10■いやそこでは終わらない。BOBを下ろそうとするAKIさんの前で、あろうことかBOBは自分自身を下ろし始めるのである。いや待て待て、自分自身を下ろすってどんな世界だよ。意外過ぎてすぐには想像できない領域だ。恐るべし、神道を超えているのかBOBワールド。でもその自分と自分って?

■11■頼むからAKIさんが下ろしたBOBとBOBが下ろしたBOBとでMETAな会話をまだ始めないでね。自分と下ろした自分自身との関係は、分け御霊のように力も量も減らずそのままなのか。それとも降りてきた方がより反転領域が広大なのか。パラレルワールドでは相互に呼び出し可能であるとか。

■12■では自分が下ろした自分自身が、また更に自分を下ろすことも無理なくできるのではないか?そしてそれはまた垂直方向にいくらでも続く…。何だか実際にこの時空の中を生きるってそんな感じなのかもと思えてきた。もしくは奥行きの1つの方向性。ちなみに「もれなくオコツトが付いて来る」らしい。

■13■BOBがあればオコツトはいらないというわがままな人も少なくないので、巷には不要なオコツトが満ちあふれ、迷いオコツトや野良オコツトが跋扈している。…って、どんな世界だよっ!ツッコミ先が分かんないよ。でも先日の舌打ちするオコツトより、ぐんとオコツトが身近に感じられはするけれど。

■14■そんなあたりで夜も更けて、まだ明日もあるからと解散になったのだけれど、床に入って寝入る前に、ひょっとしてこれって、BOBとAKIさんだけの話できなく、私たち1人1人のすぐ未来の話でもあるんじゃね?と思ったらちょっとビビった。神道世界はこんな超呪術的ワールドが当たり前なのかな。

     written by Marometal














 

本当にありがとう、プロジェクター



■1■私は人前で話をする時、画像なしでは言いたいことが全然伝わらない。そんな私と話を聞いてくれる人たちとの間をつないでくれるのがプロジェクターだ。今回も飛鳥でプロジェクターを使って話を始めた時、画像の向かって左側に白い点々が出現しているのに気がついた。最初は白壁の模様かと思った。

■2■しかしそれは壁の問題ではなく、投射した光そのものの中にあることに気がついた。話を展開しながら、それでも最初はそれがライトの傷やレンズの埃か何かに由来するものだと思っていた。しかし休憩時間に、その画面を浸食する白い点の群れは、基盤そのものがもう限界を迎えているからだと知った。



■3■話を進めていくごとに、その領域が少しずつ広がっている気がした。このままの調子だと、画面がだんだん見えなくなっていくし、それどころかいつ突然壊れてしまって画像が消えてもおかしくはない状況かも知れないと思った。最後まで頑張ってくれと願いつつ、プロジェクターとの日々を思い出した。

■4■翌日、3日目と確実にその画像を侵す領域は少しずつ、しかし確実に広がっていった。本当に何度もこのハンディなマシンと一緒に各地を旅して来たことを想起しながら話をしていると、胸が熱くなってきた。今まで本当にありがとうと感謝の念をひとり心の内で抱きながら、話続けられた4日間だった。



■5■色々なところに持って行き、様々な話を共にした思い出が蘇る。それは私のプロジェクターに対する勝手な思い入れに過ぎないとも言える。今回は直前まで体調不良で、奈良に行きつけるのかという思いすらあったほどだ。物質文明的な発想ならば、帰りにこれを用途廃棄処分にしても何の不思議もない。

■6■しかし私はとりあえずこの壊れかけのプロジェクターを名古屋の家まで持ち帰った。今はどうお別れするか考えているところだ。これからも話を続けていくのであれば、当然のごとく新しいプロジェクターを導入する必要がある。モノも新しいものに変わって行くのは自然。ただその継ぎ目も重要だろう。



■7■電卓やパソコンと同様に、このプロジェクターも私の一部である。まだ過去形ではない。個人的な妄想でいいんだけれど、生き物に対するようにモノに対しても、思い入れが深かったことに気がついて情緒が揺れている。画像に依存の話の展開すらも、今後一考を要する可能性もある大きな出来事だった。

■8■そしてプロジェクターだけでなく、私の身の回りの様々なモノたちにも感謝の念が再沸していることを自覚する。人にもモノにもコトにすらも、甘え、信頼して、そして自分なりに感謝と慈しみの思いを抱いていることをも再確認できた。偽りなく口にしよう。プロジェクター、今まで本当にありがとう。














 

話を聞いてもらえることの有難さ



■1■ゴールデンウィーク後半に奈良は飛鳥のギャラリーで4日連続で話をさせてもらったんだけれど、その時熱心に聞いてくれていた人から画面の中の図が間違っているのでは?という有りがたい指摘してもらった。終わってから確認しますと言って話を続けたんだけど、後で計算したら確かに間違っていた。

■2■1辺が1の立方体(正6面体)の1つの面の対角線は√2であり、対の頂点間の距離・立体対角線は√3であることは知っていても、1辺が2の立方体の中に整数3が沢山潜んでいるということは、案外気づかれていない。それでそれを示すために2×2×2の立方体を描き、その上に3の長さを示した。



■3■2×2×2の立方体の1つの頂点から、対の位置にある頂点に接する3本の辺の線心(線の真央の点)へ伸ばした線の長さがぴったり3になるのだが、私の示した図は間違って対の位置にある頂点に接する3つの面の面心(面の中心点)へ伸ばした線の長さを示していた。実際のその線の長さは√6だ。

■4■文字で示すより図の方が早いのだが、その図が間違っていたら台無しである。上図で示した左側の方が間違って示した実は√6の方の図であり、右側が後で修正した正しい3の長さを示した図である。ここでは立体対角線の他にそれぞれ1本だけを示したが、実はどちらの長さもこの中には全部で24本ある。


■5■この図を元にすると様々なことが語れる。例えば地球-太陽間の平均距離1億4959万7870.7kmを基本の1天文単位として、地球の公転軌道面を含む軌道殻を想定すると、それは2×2×2の立方体にぴったり内接する。そして1つ外の火星の公転軌道殻の方は3×3×3の立方体にほぼぴったり内接する。

■6■またこの24本の線を内包する2つの立方体を1つの面に投影して平面化すると、どちらの図も各点とその対の位置にある2辺の中点をつないだ線8本から、変形した8芒星のような図形になる。その図形の中の線の交点を上手くつなぐと、辺長を1/2、1/3、1/4、1/5に分割することができる。




■7■他にも天円地方の概念や、月と地球の関係性の概念図など、様々な話に繋がって行くのだが、最初の線の両端点の位置の間違えを指摘してもらえなかったら、間違えた図を示しながら得意げに話を展開していくであろう恥ずかしい未来があったのだ。全く持って感謝に堪えない。聞いてもらえる有難さだ。

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■リップサービスやカッコつけからではなく、自分の話を聞いてもらえるということを、本当に有難いと思っている。1人では気付けなかった異なる視点からの新しい視野や、間違っていたことに気づくこと自体からすらも、新たなるものが見えてくることがあります。
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■自分の知恵をひけらかすだけの物言いはちょっとごめんなさいなんだけれど、ふとした疑問や自分の気づきなどが浮かんだら、憶することなく気軽に話して見みてほしいと心から思います。私だけの気付きではなく、新しいものの見方を共有できるかもしれませんのでぜひ。

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■なお、このコメントにつけた図は基本の地球軌道殻から、正6面体と外接球内接球で外に広げていって木星軌道殻と土星軌道殻にまで到達し、さらにその外に向かおうというずですが、これを先日「地球軌道殻と立方体のマトリョーシカ連結」なんて名をつけてみました(^^)。















 

イモたちの芽吹きとツォルキンと



■1■昨日、飛鳥からほぼ1週間ぷりに名古屋の自宅に帰ってきたんだけれど、家を出る前に水に半分浸けておいたサツマイモたちが、根を伸ばし、葉も伸ばしていた。これらは去年マンションのベランダで栽培したものの残りで、収穫に値しない小粒だったけど、芽が出ていたので水に浸けておいたものだ。

■2■この絵ヅラは決して生命をもて弄んでいる図ではなく、収穫対象外だイモ達の生命のサイクルにも、ちょっとだけ手を貸しているところだと見て下さい(^^)。少なくとも自分では独りよがりでそう思い込んでいるありようです。もう少ししたらベランダの土の中に葉と茎部分を移植しようと思います。



■3■もう1枚は、これまた去年は外出宿泊が多すぎてあまり手を掛けられなかったこともあって、食べるに値しないような小ぶりなものが多かったサトイモです。やはり芽を出してきたので水に浸けいおいたら芽が伸びてきてました。こちらも早々に土を整えて埋めてあげなくちゃ。猫のみかんは寝ています。

■4■そして今日はドリームスペルのツォルキンではkin140:黄色い惑星の太陽の日です。中央の7番目の20キンで、いわゆる背骨ーズとも言っている20日間の最後の日です。表現を変えれば個人的には私のキンでもあり、私の銀河の誕生日です。今回の背骨ーズはGWを挟んで様々なイベントがありましたね。















 

多面体について(自分自身への前座として)



■5月4日、飛鳥イベント2日目の動画なんだけれど、午後1時から夕刻までのレギュラーな話『太陽系トポロジー2…月・地球・太陽』の前に、自分の話の前座として、自分自身で「多面体についての話」をしてみました。このツボは自分で自分の前座をするということです(^^)。

■話の内容は、多面体コーナーで綿棒多面体を作っている、チームASUKAのためのものして、プラトン立体などの最初の最初の話なんだけれど、忙しかったり、綿棒多面体制作に集中しているために画面を見る暇がなかったりだったみたい。ちょっと悲しい(笑)。

■隣りの絵画展示の部屋ではクリスタルボールの演奏があって、音として流れ込んで来ていますね。でもまあ逆にあちら側にしてみれば、演奏中に話が聞こえてきちゃったりして困ったかもですね。双方とも互いに忌み嫌うわけでなく、BGMとしてウェルカムであったと捉えております。












 

日本人・日本語・日本国2…日本語を正しく用いる者が日本人

■飛鳥イベントの最終日の4日目「日本人・日本語・日本国2…日本語を正しく用いる者が日本人」の動画です。3回に分けて話をしたのに合わせて3つのパートに分けてあります。

録画・編集・制作・総指揮:Hirotaka Tsujino

パート1(1時間11分)



パート2(1時間52分)



パート3(2時間10分)

















 

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