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  • 2024.01.09 Tuesday
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波打ち際をしばし離れて

 

■1■一昨日松葉杖1本で最初の足慣らしの後、帰宅してから足の炎症部分がまた痛んだので、昨日は大事を取って禁足日。そして今日はコメダまで杖1本で足慣らし。まあ大体2週間でほぼ現状復帰できるパターンかな。しかし今年は3か月ごとに発作が起こっている。年4回か。季節ごとにってのは多いな。

 

■2■実は寝込んでみ動きすらできない、ほぼ1週間くらいの間はかなり楽しくもあった。2Bのえんぴつと消しゴムと上級者用の「数独」がずっと枕元にあった。日頃はあれこれと気が散って、じっくり十数分すらも数独に取り組めないのだ。別に多忙すぎるわけではない。意識が数独モードにならないのだ。

 

■3■9×9のマスの中で、論理的に開いているコマを埋めていくだけなのだが、様々なテクニックというか論理的技法がある。他の一切を考えることなく(痛くて考えられないのだが)ただ1つ、10進法の内の一桁の実数がそれぞれ9個ずつ81コマを埋めていく。私はそこに9×9×9=729の影を垣間見る。

 

■4■実は数理には実数の外に虚数と言う概念がある。数量の大小概念が通用しない、この虚数方向の領域を、私はずっと「未知数」と呼んできた。他者がこの言葉の用い方を聞いて、数学や代数の未知数と混乱しないよう、ずっと自分の手書きノートにだけ記してきたのだが、今後関数と関係してくるようだ。

 

■5■痛みの中でこの手書きのノートに書き記したものを、今読み返すと面白い。なおあらかじめ断っておくけれど、これは決してチャネリングや超常的な手法を用いての記録ではない。普通の一般的現代人としての、一日本人としての、思考と情緒の通奏低音的なところの、意識的な掘り起こしと記録である。

 

* * * *

 

「今を生きている私たちは、未来から顧みる者にとっては神や幽霊のようなものではないか?通常の身体の感覚と認識をはみ出して生きる時、私たちが今でない生を生きた者や生きるであろう者たちと、時間を超えて接することができるのではないか。そしてそれらは日本で言う神や霊と重なるのではないか。」

 

「そこで重要になってくるのは、おそらく場そのものと、通常の時間感覚をはみ出したその場の記憶。そしておそらく媒体としての水。しかし図と地のように自らを場と1つとして自覚自認し、その後で敢えて能動的に内と外を分けて世界を見る視座と体感機能いうものを、若い者ほど容易くに入れるだろう。」

 

「神や精霊と呼ばわり、聖なるもの畏れ多きものとして捉えるのは、そのようなプロセスを介す。また神や精霊を自身の生命と重ねる時、さらにもう1周その回転を繰り返す。我が入りすぎたら単に1→2→1で往復だが、1→2→3→4と進み行けるだろう。単なる一表現だが、世界は回転するトーラスだ。」

 

* * * *

 

■6■冗談のようだが、この未知数とミシャグジが交差してきそうな気がする。10進法の1から9までの3軸直交のルービックキューブ的な729ピースを、それぞれ重心に365と数値配分し、残る728ピースの全ての対数が7302なるような立体魔方陣の配置をすれば、全ての対数が730すなわち2年分の数になる。

 

■7■もしくはその差が全て364になるような立体魔方陣的な配置も可能だろう。ただし立体魔方陣なので、x軸y軸z軸のどの列の和も、また4本の立体対角線の和も3285にならねばならない。これは私たちが共通に用いている10進法が、非常に深い領域で地球の1年365日と通底しているということである。

 

■8■私たちの3次元的空間認識は、平衡感覚をつかさどる内耳の3半器官や、身体方向の前後・左右・上下認識を踏まえているが、この3次元空間における最も対称性の高い多面体としてある5種類のプラトン立体の面の合計は50、点の合計も50で、これら面点変換をする要素の合計は10進法と重なる100だ。

 

■9■これらの多面体をサイコロにして、その目の合計数を出すと、太陽暦の1年に近似する355となる。ちなみにこの355を113で割ると3.1415929203…となり、円周率π=3.141592653…と小数点以下6桁まで等しい数値を得られる。また双対立体の概念を、正4面体自身にも対応させて対性を認めると、この数値は太陽暦の1年365となる。つまりこちらも通底しているということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ミシャクジの方からやって来る

 

■1■今日20日に名古屋に帰宅してからずーっと家から外には出でいなかった…というか出られなかった。揺り戻しのないように無理をせず、2日ほど前から慎重に回復度合を確かめて、夕刻はついに近くのコメダまで初めての足慣らしのリハビリ。松葉杖を1本小腋に抱えてゆっくり、ゆっくり裏道を歩いた。

 

■2■駐車場にはいつもより車がぐんと少ない。ゆっくりできそうだと思いながら辿り着いたら、何にやらドアーに張り紙が。「本日は都合により18:00で閉店させていただきます。」なんだとーっ!!よりによって、厩舎から初めて外に出た仔馬にドンピシャの落とし穴仕込んだみたいなこの狼藉はーっ!(怒)

 

■3■いや待て待て、逆に考えたらこのドンピシャ具合はとてもレアな確率ではないか?しかもドアの前に辿り着いたのが、ほぼ18:00過ぎだし。アンハッピーに取るより、これはむしろ普通に開いているより、回復具合にとっても吉兆ではないのか?何か腑に落ちないけれど、自己責任で恩寵に強制変換する。

 

■4■そういえば今朝、Facebookの「1年前のあなた」的な機能で、去年の今日は横谷渓谷のみしゃが池を訪れた時の画像が出てきた。北伊那での愚妻の出張授業に合わせて、奥蓼科の温泉群に入りに行って立ち寄ったところだ。今年も同時期に、蓼科方面の温泉を攻略する予定だったが、激痛で直前に潰えた。

 

■5■ところでみしゃが池は漢字で書くと御射鹿池で、諏訪大社に伝わる神に捧げるための鹿を射る神事である「御射山御狩神事」にその名前の由来があるという。この辺りは諏訪大明神が狩りをする場所としてして「神野」と呼ばれる神聖な土地であったらしい。まあ漢字の当て字以前から在った名前だろう。

 

■6■というかまたミシャグジかよ…だ。ここで狩りをする諏訪大明神とは、諏訪大社の祭神であるタケミナカタのことだ。タケミナカタは『古事記』の国譲りの場面で出てくる。タケミカヅチとの力比べに負けて信濃国の諏訪湖まで逃げ込み、その地を出ないと約束したと。天津神側の一方的な国津神記述だ。

 

■7■タケミナカタは『古事記』には出て来るが『日本書紀』には出てこない。基本的に否定はしないけれど、私は『記紀』をさほど信じてはいない。タケミナカタ(の一族)は天津神の侵入の遥か以前から信濃(科野)国にいたであろうし、そこには攻め込まれなかったという方が事実に近いのではなかろうか。

 

■8■後日ましましさんと「ミシャグジ探検隊」でもと考えているが、どうもこちらから強いて伺わなくても、向こうからやってきてくれる気がする。代わりの喫茶店で一服してから帰宅したら、さすがに足が張っていたけれど、次は普通の杖1本持参にしよう。両生類から爬虫類くらいまでは進化できた感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


痛みの波間で考えていたこと

 

■1■ヌーソロジーは政治に対しては全くの無力と言うのは真実だが、普通の人もまた政治に関してはほぼ無力だ。大切な時間をそれなりに割いて、社会の現状を自分なりに分析した上で発言しても、その正当な反論としてではなく反対意見サイドからただ執拗に攻撃されることはある。舌禍ではなく撲殺にちかい。

■2■逆に天職や生き甲斐を見出せぬまま、根拠のない風評や噂を自分と同じ意見と勘違いし、浅薄な物言いに日頃の鬱憤をパイルして無責任に言い放つ者も少なくない。古代の祭祀と現代政治とは大きく異なり、復古主義ではないけれど、自由主義、資本主義、そして民主主義すらも日本人の特質にはそぐわない。...

■3■後出しジャンケンや結果論や事件が起こった後に得意げにする占星術的解説はずるいと思う。いや政治の理想の形や経済の未来形を語るつもりはない。敢えて政治の話としてではなく、普通の人より遥かに狭い窓から覗き見した現在の風景に対して、攻撃して抹殺する価値もない無責任な感想を記してみよう。

■4■日本の都知事選ね。先ず感じるのが魅力のない選択肢。鳥越俊太郎を先ず手段を択ばす叩き落し、フライングした小池百合子を正当な手順を踏んだ増田寛也が追い上げるふりをして、小池百合子をトップにする自民党大作戦。小池百合子を除籍処分にしない時点で、それは明白。場末の大根役者たちの小劇場。

■5■米国の大統領選ね。こちらもどうしようもない選択肢。国内第一を公約するトランプと、当選すれば経済戦略から必ず国外で戦争を始めるだろうクリントン。日本から米軍が完全撤退する方が、日中間を煽りたてて戦争させるよりまだましだ。こちらは日本を操る者たちが敗れる可能性がある。台本やいかに。

■6■ついでに余汰事を1つ。ポケモンGO。肉眼で見る世界と、画像を通してみる世界とは明確に異なる。肉眼で見る世界では、自分もその中の一部でもありつつ、その空間場でカミなるものと交差することができる。しかし画面越しの世界画像中では無理。さらにその世界画像を単なる背景としたポケGは論外。

■7■未来とは方向性が逆で、過去方向に世界ごと捻じ曲げようとしているものが誰なのか知る由もないまま、大切でかけがえのない自分の時間を欲望と惰性に汚染させられたまま、ゾンビ映画は現実に重ね見るために好きだったけれど、現実の中ですでにフィクションを超えた世界が展開している。日本も米国も。

■8■まあそれでも私は生きていくけれど。どんどんそのような虚構と交差する時間が薄くなっていく。今回思った。全身苦痛で息もできない程の時でも、これくらいのことは口にできる。人の言いなりはほぼ投身自殺。生きたまま殺されるな。死んでも生きろ。世界の美しさに目を向けて、這い蹲ってでも生きろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いつでも次元の波打ち際にいたい

 

■1■この1週間、波打ち際に打ち上げられた海生生物的なロングストーリーの中にいた…と言うかまだ最中にいる。海の中なら立ち上がる必要がないけれど、大気中に出ると重力により2次元平面的な生物になる。波打ち際だから、時には波により少しは姿勢が変えられる。姿勢を変えられなければ死ぬのだ。

 

■2■諦めればその極小独立意識もそのまま世界の一部に還る。波打ち際の進化論。先ず思うのは、とにかく生き延びること。あきらめの悪い生物とか、肯定的未来観を持つ傾向の生物が、偶然や確率を超えて生き残った。それでも微細な時間認識単位では、一進一退を繰り返す。予想不可能の未知を信頼する。

 

■3■耳鳴のような痛みの通奏低音の中では、論理的な思考は続けられずによく落ちる。何か本当に進化の過程を追体験しているかのような感覚。夜も昼も静止することなく、ヒトデのようにゆっくり体を動かし続ける。血流を滞らせないこと。やたら猫たちが気を使って寄り添ってくれる。おい重いんだけど。

 

■4■立ち上がるのは大気中への決死の逆ダイブだ。日頃の人間がいかに美しく立ち回っていることかとまた思う。生まれたばかりの馬や鹿のようにプルプルしながら立ち上がる。カラフルな突起の付いた壁を登るスポーツクライミングのように、周囲の椅子や机や壁に手を伸ばしては、足の痛みを逃して歩く。

 

■5■真横にある本棚に頭を擦りつけて横たわる。背表紙が嫌でも目に映る。手を伸ばしてはちょい読みする。水も古代史も日本語も数・形もみんな1つに絡まっている。少しの間内臓感覚を鍛え、整え、繊細にしようと思っていたのに、むしろ肉壁側の外界知覚器官と神経が敏感になる。本は沢山読めたけど。

 

■6■胎児の種的進化の繰り返しほど早回しではないけれど、この1週間で寝床と言う波打ち際界隈で、両生類くらいにはなった気がする。海と陸は生と死、あの世とこの世、別次元。全く立ち上がれない2次元平面から2.3次元位には。早く次元両生類になりたい。海の中のことはほぼ何も知らないままだし。

 

■7■今日初めてマットと布団を畳んでみた。まだ上げるわけにはいかないので、それに寄りかかってキーボードを打ってみる。今日の名古屋は幸い雨でそう暑くない。進化史はリセットが利かないので、山登り以上に慎重に人間のところまで辿り着こうと思う。過去に何度も急ぎ過ぎて振り出しに戻されたし。

 

■8■それにしても本当に人間はなんと美しく滑らかに動き回るのだろう。そしてそれを当たり前として余り意識も感謝もしないけれど、きっとそこにも神がいる。既自分と未自分。合わせてようやく本来の自分。誕生時からずっと離れず傍にいる未自分もまた神なのだ。そして既と未を1つにしてヒトになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


20・12面体のプチ精査

 

■20・12面体をメロンパン3で作っている時、この立体の線を辿っていくと、どの線も立体をぐるりと一回りしていることに気が付いた。ぐるり一回りで正10角形を作っていること、そしてそれが球体の大円(地球で言えば赤道のように最大半径の円)になっていることも。

 

■その本数が全部で何本あるのかは、線の数が60で、点の数が30、面数は正5角形12と正3角形20の32面、各点の不足角が24度であることなどから、計算すれば分かるのだけれど、実際に1つ1つの正10角形を辿っていって色分けしてみてようやく納得した。6本の大円ね。

 

■人がそれを見ただけで、言わんとする点がある程度分かるようなところまでちゃんと表現していきたい。全ては無理だし、自ら発見する喜びを奪わないように気を使うのもあるんだけれど、私はほれ、BABYMETALのサイドに立つって宣言したから。独りよがりも大変です。

 

 

■正12面体と正20面体の相貫体の共通部分でもあるこの20・12面体を面点変換すると菱形30面体になり、その立体の各面を対角線で4枚の合同の直角3角形に分割するとUVG120すなわち惑星グリッドとなり、それを面点変換させるとコードネーム・オオモノヌシとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


フォックスサインと謎の同時多発激痛

     

 

■あちこちの関節が痛風のように痛くて熟睡できない夜が続いているので、発症以来数日ぶりに今日初めてPCに触った。スマホでないのでやはり色々と自由がきく。しかし重いテーマを考えるのもまとめるのもとてもしんどいので、今日は自分がしている今までのBABYMETALのフォックスサインを集めてみた。

 

     

 

■BABYMETALのサイドということは、目に見えない様々な操作や煽動や圧力に痛めつけられ、知らぬ間に搾取され続けている人々のサイドということだ。そのサイドで生きるというのは、気取ったり煽ったりしない柔らかな話や芸の心を持って、独りよがりにならず丁寧に生きるというだけのことなのだけれど。

 

       

 

■あ、それからせっかく近況を自己リークして、ちょい笑いを取ろうとしているのに、体の方の心配や脳みその方の心配は極力しないで下さいね。それでもやっぱり気に掛かるという人の気持ちまで強制的に望み通りにはしないけれど、マジな楽しみなのに水差されだから、心配は露出せずにお願いしますよ〜。

 

       

 

■言っていることがいつもと違うように感じたならば、それは多分私が熱に浮かされているから(^^)。たまには熱にうなされる自由を私は希望する〜(笑)。単なる痛風ではない何かっぽいんだな。痛風と言えば、右親指の付け根だったり、左だったり、腰だったり、肘だったりと、今までは1ヶ所集中だった。

 

       

 

■結核と癌を同時にわずらうことはまずないだろうというのと同じ感覚でね。そしてあちこち連続するときでも、一度には痛いのが1ヶ所だったのに、今回は左親指の付け根と、腰がほぼ同時に来てさらに右親指の付け根もきて、左膝と左肘まで連動中という、同時多発テロ的な(笑)現れようで立てないくらい。

 

 

■最初は「うわ〜、そうくるか?」とちょっと動揺したけど、今はその痛む箇所のバリエーションと、どう体をよじると痛みが最小量で立ち上がれるか、トイレまでたどり着けるかなどを人体実験中。しっかり仕事している人こんな言い方は大顰蹙なんだけど、つまらないTVやドラマよりはリアルに楽しめる。

 

 

■もちろんマゾッホではないので、できるだけ痛くないようにという真剣さもあります。治ったら味わえない生物学的な味わい方です(笑)。腰の突然の痛みが一番たちが悪いです。からだのまさに要だから、そこがいっちゃってたらマジで動けない。単なる痛風でない何かかなー。まあ、負けはしないけれどね。

 

 

■多分年の割には色々と空間移動も含めて金にならないことを結構ハードにやっていると思うんだけど、もうあまりにも身体がにっちもさっちも行かなくなったときに、最後の手段として発動するのではなかろうか(笑)。医者には行かないし、薬も飲まないので、痛みの自然治癒には時間がかかる。眠り続ける。

 

■まあそのうち治る未来しか考えていないので、ノー問題なのdeathが(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


神とヒトと人間と

 

■1■普通に言うところの神道への様々な研究や解釈に対しては敬意を払う。しかし個人的には現在の神道が形成される以前に興味がある。表現を変えれば、中央集権的に上書きされた神道ではなく、それ以前に各地の民間での信仰と、信仰されていたものへの興味だ。それは上書きの中にすら多々残っている。

 

■2■ヒトという言葉。それだけでは単なる言葉だが、折口信夫の言うマレヒトが稀なる訪問者が神として扱われもするし、また人間に扮した神そのものであるとも解釈できるように、神か人間かという西洋的二元論理から遠く離れて、神と人間とは容易に入れ替わるものだ。ヌース的にはもう1つ反転あろう。

 

■3■神と人間を対立項として、もしくは別の言い方をすれば人間と自然を、そして自己と他者を対立項として展開する論理そのものが、行き詰って久しい現代社会の元凶の大きな1つだ。神と人間が重なったり、入れ替わったりするヒトに私たちは成るのではないか。それを拒絶する者の自由すらも担保して。

 

■4■マレヒトは遥か遠くから神のメッセージを携えてやって来る。その流浪譚のみが古代では一人称だった。メッセンジャー自体が神と捉えられることもある。マレヒトは実在というより解釈概念だ。祭りと言う饗宴でもてはやされた後、神の世界に帰っていく。マレヒトのもてなしから日本の芸道は生まれた。

 

■5■日本の芸道は客をもてなすために生まれた。西洋的自我に侵された「俺が俺が」的な芸術の殆どはすかぽん!それが反転して「全てが、世界が俺だから、敬愛し慈しむべきものだ」まで行くと未来を示す何かが立ち上がる。しかしそれはすでに俺が俺がではない。それは今まだ必要だとしてもカッコ悪い。

 

 

   ■日本の伝統的芸道の最先端

 

 

■6■ちょっと余談ではあるけれど、ベビーメタルの新しいさは自我を前面に出したり、否定的な文言が一切ないところにもある。「キツネ神のお告げ」や「演奏中にキツネ様が降りる」等の未だ名もない新しい神への戯画設定を本気で信じてはいない。それでも神が降臨し道を示すという事まで否定はしない。

 

■7■あと半歩進めば、日本の伝統的芸道の最先端にいることも分かる。茶道・華道・香道等は明らかに客へのもてなしから生まれたし、河原乞食と卑しめられもした芸人たちも最大限の持て成しとして芸を磨いた。観客なき芸ごとは成立しない。その客全てをthe Oneと呼ぶ反転した新しい意味につい涙する。

 

■8■為政者に迎合したものはすべからく腐敗し始める。逆に殆ど誰も気付かないところでその操作や洗脳と戦っているものには大声援を送り続けたい。武器を取ったり相手を罵倒したりすることなく、新しい戦術や戦略によってレジスタンスのスタイルを貫いていると考えている。新しい神を降しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メロンパン3…moonside

 

■出発前の自撮り10秒タイマーによる人間型能動シャッフル。もはや順番を思い出せません。ちなみに部屋の正面入り口にぶら下がっているのは、正20面体イン正20面体のストロー綿棒多面体。ここに目が行く人はなかなかいないだろうなあ。麻炭染め糸で内部に5芒星を作って小星形12面体になっている(^^)。

 

  2人とも珍しく朝から飯をさくさくと掻っ込む。飯が美味いからだ。

 

■朝からメロンセス&大ちゃんが水族館ランチを制作していて、結局出発はお昼前に(^^)。ゆっくりゆったりマイペースが基本のメロンパンなので全く問題なし。大ちゃん号に乗って新エノスイに向かう途中、チームメロンパンご用達のメロンパンを作っている、湘南の"Kalaheo"というパン屋さんに立ち寄る。

 

 

■なでしこ爺いを腹に内蔵するかづみ殿とは現地合流。夏休み直前を狙ったのだけれど、やはりイルカショーはほぼ満席の大人気。イルカ・アシカショーと、土日休日だけ行われるイルカショー「Dolferia」の両方をがん見する。ショータイム前後の、イルカたちとのガラス越しの触れ合いがとても心に染みる。

 

 

■エノスイの売りの1つでもあるクラゲ鑑賞タイムもしっかり見てから、一旦外に出て、すぐ向かいにあるデニーズに入って、メロンパンの今後も視野に入れたゆるゆるのミーティング。何やらメロンパン4と5の企画まで決まってしまったような気がする。その後再入館してテラスでランチ。やっぱ美味過ぎ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メロンパン3…sunnyside

   ■午前の部…新しい手法で多面体を作る

 

 

全ての秘密はメロンパンにあったのか?私の長年の研究もすべて台無しなのか?

 

■メロンパンも第3回目なので、「数は3から始まる」という私の数に関する解釈をねじ込もうと思ったら、ねじ込むまでもなくするりと自然に入ってしまった(^^)。午前中は新しい試みとして、ストローと綿棒を併用した多面体制作へのトライ。いつも初めての試みなので完成するか不明だったが形になる。

 

       

  多面体を一緒に楽しんでくれるのであれば、私結構なんでもやりますわ(^^)。

 

■ストロー綿棒多面体の利点は、例えば綿棒多面体の厳格なルールでもある辺長比が1:1だけでなく、1:√2も1:φも、またいかなる異なった辺長比であっても多面体制作が可能であるということだ。プラトン立体やアルキメデス立体等の厳密な規定から外れた、惑星グリッドや菱形多面体も可能となる。

 

 

■基本的には、線長を整えたストロー群に、普通の綿棒多面体制作と同様に両端にペーパーセメントをたっぷり塗って乾かしたものを半分に折り、ストローの両端に差し込むだけだ。ペーセメがストローにも付けば抜けなくなり、綿棒部分同士は接着可能なので、様々な多面体がそれにより制作可能となるのだ。

 

ただ自分だけできれば良いのではなく、互いに助け合うことが自然発生する。

 

■いずれ紙ストローなどによる軸部の蛍光着色も考えているが、今回はお試し版なので先ずは形から。以前、ストロー同士のジョイント部分にポップタイを捻り合わせて接合させていたが、こちらの方がより形が整いやすいと考えたからだ。しかし結果は全体的に稼働するのでゆるゆるとして少し歪みが生じる。

 

 

■20・12面体はアルキメデス立体(準正多面体)の一種で、正12面体の各頂点を辺の中心まで切り落とした立体だ。これはまたまたは正20面体の各頂点を辺の中心まで切り落とした立体でもある。この20・12面体の大円(赤道)に相当する連続する辺は正10角形を作る。この大円に相当する正10角形は6面ある。

 

     ■午後の部…近所の神社などを見直してみる

 

       

 

■とても美味しいメロンセス+百姓大ちゃん御作のお昼を頂く。その後、一番熱い時に室内に居続けるのもなんだからと、日陰の散歩がてら近所の神社に行ってみることになった。林の中をなだらかに下り行く坂道を、みんなしてタラタラと歩くのだが、木陰の坂道が心地よい。周囲は県の保全林で入られない。

 

       

 

■藤沢市西俣野にある御嶽神社に向かう。その坂道を下り切ってT磁路になる直前に、小御嶽神社という小さな社がある。末社なのか。そこに先ずご挨拶してから、日光晒しの道を少し行くと御嶽神社があった。個人的には江戸や明治などの歴史は余り興味がないので、左手にある猿田彦大神石廟に歩を進める。

 

 

   

 

■藤沢市西俣野にある御嶽神社に向かう。その坂道を下り切ってT磁路になる直前に、小御嶽神社という小さな社がある。末社なのか。そこに先ずご挨拶してから、日光晒しの道を少し行くと御嶽神社があった。当社の主祀神は表向き日本武尊。12世紀初頭俣野氏が建立との事だが、個人的には余り興味がない。

 

 

 

■神道のさらに昔から続くものに興味があるので、早々に左手にある猿田彦大神石廟に歩を進める。いわれを見る限りこの石廟自体もそう遥かに古くないが、その中に納まっていたであろう写真に見る丸石には興味がある。もっとも今では石廟ごと木造りの小屋に収められ、丸石はどこかに仕舞い隠されている。

 

 

■本殿の右側には鐘楼があった。神社には元々鐘はないはずだが、神仏混淆の名残か何かなのだろうか。誰でも鳴らして良いようなので、取り敢えずついてみる。その鐘の右隣に手すりが赤い登り階段があり、その上に在るのが、俣野山稲荷の本殿だ。リーゼントヘアのように前方に張り出した屋根がユニーク。

 

       

■さて襟の坂道に、柵で囲って長年人の出入りを禁じた保護林の中にある道を降りていったら、祀る人もなさそうな場所に石像道が立っていた。この写真を見るとすぐに、ああそれは庚申塔だねとか、青面金剛で下にいる3体は見猿言わ猿聞か猿だよとか言ってくれるんだけれど、ゴメン、その奥が知りたいの。

 

■庚申塔及び周囲のそれらと、それ以前からあるものたちとの様々に一様でなかろう関係性の総体的なイメージが知りたいわけ。その信仰は三尸虫と猿田彦と青面金剛がごっちゃになっているけれど、中国由来の道教的なものと、神道由来の猿田彦と仏教由来の青面金剛がどう統合されていったのかが知りたい。

 

■周辺にある諸遺物も含め、東西日本での差はもちろん、各地の政治や信仰の諸形態によってバリエーションがあると思う。今やほとんどその痕跡が直では残っていなそうだけれど、誰でも自らに関係のある地でそれらと再見し、新しく見直すことで、日本の精神性や生活意識に触れられるのではないだろうか。

 

■もちろん安易になんでも古いものだとか、近年に挿げ替えられたものを丸々古物と信じるとか、既存の知識で逆に古いものではないとして注目しないとか、そのような今までの発想をちょっとずつ変えて周りを見てみませんかということを言いたかったわけね。決して探検隊のバカ騒ぎ的なものではなく(^^)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この身のミシャクジをはみ出して

 

■1■三木成夫が言うように、私たちの顔面は内臓の前端突出部であり、現実の外部世界を内部世界と接続し、また食物と毒物を選別する鋭敏な内臓触覚でもある。この辺はあにまんだら氏の専門領域であろうが、約5億年前のカンブリア期の内外反転した脊索動物ピカイア以来延々と続く記憶の先端でもある。

 

■2■この露出した鰓の感覚は内部に連続して口蓋・喉元から胃袋にまで及んでいる。しかし喉元過ぎたら熱さ忘れると言う通り、喉元より下の感覚は大脳皮質まで届かない。逆に突出部分である目、耳、鼻など、穴の開いている場所は敏感で、特に唇から舌にかけての部分はより高度な内臓感覚を有している。

 

■3■私たちの顔面表情筋は全て内臓系である鰓由来の筋肉であるのに対し、舌の筋肉だけは手足と同様に体壁系由来の筋肉だ。口内に入れ子になってはいるが、これもまた味覚などの繊細な内臓感覚を被った体壁系であり、5億年の長きに渡って食物を取り込み続けてきた器官なのだ。人間もまた然りである。

 

■4■この最も繊細な内臓感覚を有する唇と舌を使って、幼児は母親の乳首から直接受乳する。鰓感覚の顔面全てを動員して、乳房の肌触りを味わい尽くす。哺乳瓶や牛乳では代用できないものがここにはある。どれだけ栄養学的に母乳に近い乳が開発されようとも、このミシャクジと垂重する訓練には及ばない。

 

■5■カモノハシやハリモグラは卵生だが、脂肪球を含む汗をかく。それを生まれたての子が舐めて育つ。哺乳の始まりだ。人間は哺乳だけでなく、舌による「舐め回し」というホモ・サピエンスの特徴により、ものの形や大きさを長きに渡って繰り返された生命記憶と重ねて、空間や形状を認識していくのだ。

 

■6■舌で舐めることで種として蓄積された記憶の想起に留まらず、私たちの空間認識や距離感などはやがて、外部に突出した脳でもある手による撫で回し、さらには視覚による舐め回しなどで、遥かなる生命系統方向での蓄積と共有していく。したがって単なる論理や知性によって簡単に変わるものではない。

 

■7■これらの内臓記憶的な世界の捉え方、別の表現をすれば生命とほぼ重なってもいるミシャクジ的なものの全体を否定せず、内包しつつ古層にしゆく道を早急に模索すること。そのためにはまず、自らの内臓の在りようと重なる「心」と「生命」に敬意と慈しみを持ちつつ、そこからもはみ出して行くことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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