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  • 2024.01.09 Tuesday
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暦がないのは良い暦

 

■1■ここに表明する必要もないけれど、しない必要もないので、どちらでもよいということで表明しておくことにするけれど、私は個人的には年末年始などの諸事諸挨拶とは殆どかかわりがない。もちろん他の人たちが年末年始の諸事をこなすことや、取り交わす挨拶にいちゃもんをつけるつもりは毛頭ない。

 

■2■1人きりになっていれば、個人的と世間一般という立て分けも無いわけで(もっと言えば1人きりですらないわけだけれど)、世間や社会の中で約束として使われている年月日や諸事との交差するところはほとんどない。他者と交差する時に、社会的約束として年末年始の挨拶をしてもそれは変わらない。

 

■3■夏至・冬至、春分・秋分や他の天体との合や衝はそれなりに意識を置くけれど、太陰暦とは全く関係のないグレゴリオ暦のクリスマスや12月31日や1月1日というものに、社会的共有の外に価値を見出していない。繰り返すがこれは否定ではなく、許容可能だがその暦の世界に価値を置かないということ。

 

■4■社会や世間から隔絶しているわけではないし、既存のものに対して不満や不快を表わしているわけでもない。状況が許されているからそう本意を表明しているだけだ。ここで一言だけ言いたいのは、人々や社会の中にいても1人きりの世界の意識の自由度を放下する必要はないということだ。

 

■5■社会や友人知人とのかかわりにおいて、自分は暦やそのほかの決めごとや約束事に縛られる必要はなく、むしろそれらを楽しみ選ぶ余裕を失念しなければ何の問題もない。さあそういうことで、私はこれから愚妻が用意するであろう年越し蕎麦を食い、雑煮やおせちを食うのである。いいとこどりである。

 

■6■ああしかし、甥っ子や姪っ子たちへのお年玉はこんな身勝手でひとりよがりの素晴らしさを話しても、セコくお年玉をくれない理由にすぎないと思われたくないから、やはりしっかり準備しなくては。新年会にも顔は出さなくては。まあいつでも人非人になることができるので、余裕で人間致しましょう。

 

■7■余裕がない時は余裕がないことを失念しなければよいのだが、失念しなければよいということを失念して、世間のしがらみや社会的なイベントに余裕を少しずつ削られるってのもいいなあ。「人々の中にいてもしっかり1人でいることも失わないこと、1人でいても人々と共にあることをわすれないこと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


千年温泉を巡るということ

 

■1■「人は同じ川に2度入ることはできない。」ヘラクレイトスの物言いだ。川は同じように流れているが、2度目に入る川の水は最初の水ではない。行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」こちらは鴨長明の『方丈記』の出だしである。

 

■2■実は変わりゆくということこそが良いと主張する哲学者のパラドキシカルな話のツカミや、諸行無常という概念を諦念の侘しさに染めた隠者の語り始めのトーンにも揺るぐことなくこう言おう。「人は同じ温泉に何度でも入ることができる。」同じものは何か?温泉の名前なのか。それともイメージや効能?持続するのは何だろう。

 

■3■天然の温泉は実にデリケートで、日によって湯音や湯量や温泉成分が変わったりする。色が何色にも変わることも珍しくない。地震や天変地異で泉質が変わったり、枯れてしまったり、また新しく湧出することもある。温泉天国である日本列島には千年温泉というものがある。千年かそれ以上昔から絶えず湧き続ける名湯のことだ。

 

■4■ブラジルにシャコペエンセというサッカーチームがある。コパ・スダメリカーナ決勝のためコロンビアに向かう途中、チャーター機が墜落して選手のほとんどが他界した。サッカー界ではクラブ再建のため所属選手をシャコペエンセに移籍させるという協力体制を打ち出すクラブが多数ある。ほぼ全取っ替えだがチームは存続する。

 

■5■ここまで極端でなくても、野球やサッカーなど、年を経て選手がみな変わってもチームは変わらない。何が変わらないのだろう。思い出?愛着?伝統?絶えることなく持続するものは何だろう。名前?共有する概念?抽象的な何らかの継続するカタチを私たちはそこに見る。千年を軽く超えて人間がに入り続けた同じ温泉のカタチ。

 

■6■泉質が変わったものあれば、名前が変わったものもある。次々に湧出しては溢れ出て流れ去る湯はまた、逆に千年以上前の湯と同じであるとも表現できる。確実に確認されるものだけでも、百十余の「千年温泉」が日本にはある。1000年1500年2000年もの間、枯れることなく湧き続けて人々を癒し治し続けてきた。積み重なる思い。

 

■7■古い温泉にはほぼ温泉神社や温泉寺がある。歴史があればよいという話ではない。どれだけ多くの人たちに有難がられ、実際に助けてきたことだろう。その地の磁場や湧出する温泉に、日本の歴史以上のものが積み重なり持続している。巡礼やお遍路のように千年温泉を巡ってその湯に浸かり、己が身にその継続するもので染める。

 

■8■古湯に残る日本的霊性やその地の精神性や生命力についての総体的研究はあまり聞いたことがない。病から立ち直り、また若返りを果たした者もいれば、湯治も虚しく死んでいった者もいよう。また子宝の湯という表現もあるが、湯の効能だけでなく実際の巡り合いや睦み合いもあっただろう。人間と温泉の千年二千年史を考える。

 

■9■頭で考えるだけでなく実際に全身で浸かり、この生命にそれを刻み込みに行く。ただし巡礼やお遍路のように信仰や使命感からの苦労や苦痛を味わうのではなく、湯に浸かった時のあの心地よさがそこにはある。そこに生き様を重ねに行くのではなく、そこから心地よい未知の力積を授かりに訪れるのだ。あと50余りが未湯である。

 

■10■50湯100湯とは言わないが、1湯2湯なりとこの千年温泉に共に浸かり、そのここで異なるその味わいを交流しながら、千年、二千年、それ以前から続く、日本人と温泉の関係や特異性について話し合うような機会がこれからもあるに違いない。そして私たちの心身や精神にこそ、その変わらないものがあると気づくのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


BABYMETAL 雑感-03

     

 

■1■BABYMETALのプロデュースも含めた諸設定は、「キツネ様のお告げ」とか「キツネ神のみが知る」とかステージではキツネ神が憑く」等と自らも表現するが、旧態依然の稲荷信仰者や別の宗教(無神論も含む)の熱烈な信者とは異なり、殆どの日本人もそうだが、その世界観自体を否定も肯定にも与しない。

 

■2■楽しみながらその中に自分たちを当てはめてみたり、またそれを客観的に捉えてみたりが自由にできている。ステージ上などで芸能の神霊ともミューズとも表現できるある種超えたものと1つになっていることを、お約束のように「キツネ神が憑」くと敢えて表現しても、誰も傷つかないし貶められもしない。

 

 

■3■「郷に入りては郷に従え」が「そうしなければ何事もうまくいかない」からではなく、そうしなくてもかまわないけれど、敢えて合わせることもできる」からそうするという余裕の設定。眼前の二択を超えて接する。しかもそれはただ観念だけで捏ねるのではなく、天賦の才と弛まぬ努力に裏打ちされている。

 

■4■「1でも2でもなく、数は3から始まる」という表現は論理を持つが論理として提示しているわけではない。日本人の発想は、遥か昔から2元的発想を最初から超えていて、それでも日本の中ではそれを否定せず自然に生活の中にあった。2元的発想をもうまく取り込めること自体、それを超えていたからだ。

 

       

 

■5■『4の歌』を聴くたびに、かつてのデジカメやTVモニターの縦横比から自然に対角線の5を無意識的に知らしめされていたけれど、それに囚われていないことを思い知る。敷布団を3つ折りに畳み、掛け布団を4つ折りに畳んで押入れに入れながら、BABYMETALが3+4のメンバー構成だと考えている今朝。

 

■6■BABYMETALはステージで才能を爆裂させた後、素に戻ると少し抜けたところすらある愛すべきキャラだが、黒髪のままでいる。ナルシストでチャラいキャラのクリスティアーノ・ロナウド。最高のパフォーマンスをするために日々トレーニングを欠かさない彼は、安易に刺青をしないことと通じるものがある。

 

■7■BABYMETALは本当に品が良い。大切に愛され育てられたことが窺える。ねじれた自我や貧しい欲がない。ステージでは我がなく、メッセージには否定的なものがない。触れるものをみな優しく幸せにしていく。目の前にある奇跡。次元が違っているんだけれど、次元の狭間は隔絶しておらず開いてくれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


顔・腸・心

 

■1■「心は顔に出る。精神は体に現れる。」心とは、精神とは何かという定義を厳密に示そうとすれば長文になるのでここでは省く。個々人によってもその意味は異なるけれど、その差異を否定することなく話を進めたい。顔は解剖学的には内臓頭蓋という。顔の筋肉と舌筋と心肺は元々呼吸を司っていたエラに由来する腸管内臓系だ。

 

■2■顔にはタイムスパンの異なる捉え方で言えば、造作と人相と感情が重なっている。瞬時の感情や一定期間の生き様の積相はもちろんだが、造作という遺伝的な基底形状もまた年齢や環境によって順次変化していく。顔のことを面(オモテ)と言う。これが表であるならば、裏はどこか?それは心の宿る高等生命体の源である腸管だ。

 

■3■表裏の界面に立つ。心は顔に表れる。しかし誰も自らの心は見ることができない。鏡や電子機器を介して見ても、それは他者や外部機器を通した視座の画像であり、自らの心そのものではない。しかし自分にとっての世界、自らの環界そのものを、腸内平滑筋のうねりわななきでもある心の反転したものとして捉えることができよう。

 

■4■自分が辛い時は世界も悲しく暗く見えると言うが、それは心象風景としてそう見えるのではなく、自分の心そのものがそのまま暗く悲しいのであって、それを観察している自分自身とそれを投影して見える世界というもののが別個に存在するわけではなく二而不二。主語と述語という記述が全てではない。心はあるが私のない世界。

 

■5■そのような捉え方や表現もあるという話であって、他の様々な世界観や表現を否定する必要はない。どちらもありだし、さらに未だ未知の捉え方も多々あるという姿勢で話を進めよう。腸は大きく3つに分かれている。入り口から喉元までの鰓(サイ)腸、それと対を成す泌尿・生殖に関する出口までの肛腸、そして暗く長い腹腸だ。

 

■6■心は顔に出ると表現したが、顔は生物としての長い歴史に加えて、その人の人格や品性から生き様までが表れる。俳優として演ずることはできても、生命そのものを演ずることはできない。憑くと表現されるようになり切ることはできるが、自分と環界のように、もしくはダンスとダンサーのように瞬時に区別することはできない。

 

■7■顔には視覚・聴覚・味覚・嗅覚が集約しており、また呼吸・食物摂取・言葉発声をする腸管の入り口もある。戦国時代や吸血鬼退治に首を切り落として絶命させ、かつその個体識別の元ともする。初見の人を背後からこんな顔の人なのだろうと予見することはできない。顔は常に過去と未来を内包する今この瞬間の心なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


7芒星と脳みそタリズマン

 

■オセアニア地区代表のオークランドシティはニュージーランドのチームだ。オールブラックスはこの国のラグビー代表の愛称だが、サッカーの代表チームはオールホライツと呼ばれている。

 

■地理的な意味でのオセアニアにはオーストラリアが含まれるが、オーストラリアはサッカーで切磋琢磨するために、敢えてアジアサッカー連盟に所属してW杯の出場権などを戦っている。

 

■ところでオーストラリアとオーストラリアの国旗は似ている。共に縦横1:2の1/4を大英帝国のユニオンジャックが占め、オーストラリアは青地に赤い5芒星4つの7芒星ている。

 

■オーストラリアは同じ位置に白い星を4つ配して南十字を表しており、さらに大きな星と小さな星が1つずつ加わっている。中々気付かないのは5つの星が7芒星であるということだ。

 

 

■小さな5芒星も混みで南十字星を表わしており、7芒星は現在の6州1準州を表すという。なるほどと思ってもう検索をやめようとしたその時、目の端に北海道の旗というものが映った。

 

■普通の7芒星よりさらにスリムな形をしている。この7芒星は蝦夷共和国の国旗の7芒星から来ているのだろうか。また札幌の旗は6芒星の中に5芒星が入っている。怪しい裏事情ありかも。

 

■消防のマークが6芒星で警察のマークは5芒星だから、そう驚くことではないかもしれないけれど、青森市の旗まで7芒星をしているではないか。歴史的にも蝦夷共和国とも関係ありなのかな。

 

■ところで360度を7で割ると割り切れず51度26分弱になるが、この角度はギザのピラミッドの傾斜角51度52分や、α水晶先端の傾斜角51度51分を連想させられる。7は名無し数でもある。

 

■7芒星の銀のペンダントはタリズマン(護符・お守り)としてよく効くらしい。今日の私はいつにも増して脳みそ足リズマンだから、7芒星について語らず、北方の温泉に浸かる夢をみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


満月が好きと口にしてみる

 

■1■満月は好きだ。自分が生まれた時が満月だからというだけではない。曇りや雨の日は満月を拝めない。それでも満月の日は意識を月に向ければ色々なことを思い出す。耳の中で高い音がする。自分の過去を思い出すのはもちろんなのだが、こんな日は何か自分の記憶でないものとも繋がるような気がする。

 

■2■チャネリングとか前世記憶とか言うものを持ち出さなくても、誰にでもありうることではなかろうか。直感やインスピレーションや至福感を伴う恩寵などすらやってくる。こちらからも何か既存の世界のちょっと外の諸々のものに知覚の触覚を伸ばすこともできるに違いない。後は共有するための表現だ。

 

■3■月は誰のものでもないからこそ誰のものでもある。誰にも似ていないからこそ誰にでも似ている存在なのだ。イデアとか原型とか神とか、そんな既存の言葉や概念に括ることなく、ただそう感じられるか静かに確かめてみる。何も特別なことではない。ことさらに騒いだり得意がったりすることでもない。

 

■4■満月は好きだ。もちろん新月が好きという人もいれば下弦の月がよいという人もいるだろう。だからといって自分の感覚だけを主張して、無理やり相手を納得させる必要はない。みんな同じ1つの月を見ているわけだから。月は好きだけれど、その中でも満月の顔と雰囲気と、その時間質が私は一番好き。

 

■5■西行のように細かく指定はしないけど、死ぬなら満月の時がいい。これからは毎回満月の時に死に、そして新生しよう。月は単なる地球の衛星ではない。水星・金星・地球・火星の公転周期の88日と225日と365日と687日を足し合わせれば、ぴったり50朔望周期になる。地球を抜けばちょうど1000日だ。

 

■6■満月が好きという生命の傾向性がここにある。それを特別視するために解析したり、正当化して安心するさもしさから遠く離れて、ただ私は満月が好きですとこの寒空に向けて囁いてみる。好きなものを好きだと言える幸せな世界がそこにある。誰のものでもないからこそ、誰のものでもある自分がいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


さようなら、スーちゃん、ありがとう

 

★当家の猫々ハウスのスーメタルことスーちゃんが12月12日の未明に他界いたしました。悪性リンパ腫のレーザー手術からの低体温症。可愛がってくれた方々、本当にありがとうございました。そして本当にありがとう、スーちゃん。

 

 

       

 

       

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


波打ち際という界面に佇んで

 

■1■ここのところ何カ月もずっと水際という界面を意識している。科学的把握によれば今の宇宙ができてから138億年、地球が誕生してから46億年、そして脊椎動物の歴史が5億年。三木成夫の『胎児の世界』の中には、胎児が母体の中でこの5億年の「生命記憶」が超高速で再現されるさまが描かれている。
 
■2■5億年の生命記憶における水際。それは自分も含めた生物進化の最大のイベントである脊索動物の上陸を含む前後であり、生命個体としての自分や他人の胎児期間における両生類期の前後であり、誕生自体の前後であり、そして現今の次元両生類としての世界観の大変容前後を含めた今そのものでもある。

 

■3■「個体発生は系統発生を繰り返す。」ドイツの動物学者にして哲学者であるヘッケルの有名な言葉だ。この状況証拠的な提示は示唆に富んでいる。しかしこれは「我々には個体発生はあたかも系統発生を繰り返しているように見える」という観察を語ったのであり、進化の仕組みを解明したものではない。

 

■4■この系統発生を繰り返す個体発生の過程で、魚型の胎児は1度だけ息も絶え絶えになり、必死になって何かに耐えてもがき苦しむ時期がある。それは胎児が魚をやめてデボン紀の上陸劇を再現する姿である。それを乗り超えると再び元気になり、短時間の内に爬虫類、鳥類、哺乳類の形へと変身していく。

 

■5■観念的な話ではない。私達もみな通過したところだ。人間であれば受胎32日目から受胎38日目までであり、それは3億7千万年前のデボン紀初期から3億1千万年前に相当する。この間の胎児の1日は1千万年に相当する。この後、胎児は260日程をかけて上陸後からの3億1千万年をなぞって成長する。

 

■6■そして個体としての誕生時に、羊水の破水によって「初めての2度目」の上陸劇を演じることになる。水中から大気中への反転。重力は6倍、酸素濃度は30倍。生命戦略に則って血圧は倍になり、肺呼吸はほぼ瞬時に肺呼吸へと転じる。幼児はさらに人類の進化をなぞり成長する。それでは今から明日は?

 

■7■どこで反転が起き、どのような逆パースや対数的相対関係があるかをしっかり把握しようとし、この私達の1日1日、一刻一刻がどのように多重多様に生命そのものと呼応しているのかも失念せず、そしてひとりだけ隔絶しているという根本的な誤謬を超えて、できるだけ丁寧に生きていけたらと考える。 

 

(多分続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


猿投(さなげ)という地名を手繰る

 

■名古屋から見て鳥羽は南、犬山は北、猿投は東にある。それが特にどうしたというわけではないが、桃太郎が鬼退治に行く時、きび団子の報酬だけでお供になった動物(鳥はキジだが)の入った地名が3方向にあるのが面白い。そして残る西方向には物語の舞台候補の1つ岡山(吉備の国)がある。温泉の話だが地名の由来を考えよう。

 

■猿投という地名の由来について考えよう。その昔景行天皇が伊勢に行幸した時、飼っていた猿が悪戯をしたので海に投げ込んだところ、鷲取山に逃げ込み、そのことから「猿投山」という名前がついた。猿投神社の祭神は景行天皇の第一子「大碓命」(オオウスノミコト)で、日本武尊(「小碓命」オウスノミコト)とは双子の兄弟だ。

 

■オオウスは景行天皇に美濃の美人姉妹を都に呼び寄せる命を仰せられて出向いたが、二人に惚れて結婚してしまう。替え玉を都に送ったがばれてしまって激昂される。また父景行天皇に蝦夷征伐を命じられたが気が進まずに辞退した。結局代わりに日本日本武尊がその任を任されてしまい、オオウスは天皇によって美濃に封じられる。

 

■美濃の地ではオオウスは真面目にやっていた。しかしある時三河の猿投に出向いて来て、毒蛇に咬まれて42歳で死んでしまう。…まるでいいとこなしのダメンズっぽいが、案外争い事が嫌いで美女が好きな優しい好男子だったかもしれない。上述の猿は人間に化けて東征し、功を上げて山に戻ったと言うが、オオウス本人かもしれない。

 

■名前の由来で別の解釈もある。銅鐸に似た鉄製の鉄鐸というものがあるが、この読み方の1つが「サナギ」で、真城、猿啼、猿毛、佐鳴などの漢字があるが、「猿投」もその1つだ。「狭投神社」と記された記録もある。オオウスは大田君(おほたのきみ)の始祖でもある。実際に豊田市の猿投神社を訪れると、その古さが実感できる。

 

■ところで『先代旧事本紀』と『古語拾遺』が記す「天岩屋戸」の記述の中に、天岩屋戸に籠った天照大神を招きだすため、天目一箇神(アマノメヒトツカミ)が種々の刀・斧・鐡鐸(さなぎ)を作り、天鈿売(アメノウズメ)が鉄鐸を付けた矛を手に持って樽の上で踊ったと記されている。鉄器、一つ目、山の民も猿投との繋がりが見えよう。

 

■さらにアメノウズメは猿女でもあり、一緒になった界面の主神でもあり、ミシャグジとも関係がある猿田彦との繋がりも猿投は有りうるかも知れない。美濃・尾張は伊勢神宮成立以前からの先住の強大な勢力であり、諏訪等と共に神道以前からの神霊・ミシャグジの世界観とも大いに関係がありそうだ。フイールドワークもまたいずれ。

 

■現代におけるミシャグジの顕現としてのBABYMETAL、脊索動物の進化過程における上陸と水際に立つミシャグジ、胎児と胎盤の関係から誕生時の次元両生類としての不可避の反転、そして誰でもミシャグジを自らに重ねて今の生を生きるには…などという話は、またおいおい別の機会にすることにしよう。尾張の地の解明はこれからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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