2種の否定と2種2階の否定

 

■1■ブッダの入滅は、その最後の旅の様子や死の原因やその時のブッダの言葉などを詳しく伝えている『大般涅槃経』Mahaaparinibbaana Sutta(マハーパリニッパーナ・スッタ)その他により知ることができる。この書はパーリ語の原文から訳されたもので、原文の題はそのまま「大いなる死」となっいてる。

 

■2■日本では若干の言葉遣いの差異はあるものの、ブッダ臨終の最後の言葉は「諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」という語になっている。今ではパーリ語から直接邦訳したのもあるが、最初に漢訳をさらに邦訳したフレーズが、基本的には今でもそのまま継承されている。

 

■3■パーリ語などのインド語は、「永遠である(サッサタ)」や「空である(スンニャ)」などの形容詞も主語の位置を占めることができる。日本語に訳す場合、この主語には「もの」を補っている。中国語と語順が逆なので、中国語では原典と逆に訳された。日本に入って来た大量の漢訳仏典も同様である。

 

 

■4■つまり、パーリ語原典『ディーガ・ニカーヤ』(16・6・7)を直接訳せば「滅する性質のものは、諸々の事象である。怠ることなく修行せよ」となる。これを漢訳の時に「諸々の事象は、滅する性質のものである。怠ることなく修行せよ」と、中国語の文法に沿って主語と述部の前後を逆にして訳したのだ。

 

■5■主部と述部を交換しても意味が変わらないと安易に考えるのは、「AがBならば、BはAである」(A=BとB=Aは等価であるという交換法則)という西洋論理学の手法と同じである。意訳として安直に語順を交換して布置された翻訳は、そもそもの話者の思考の流れという重要な要素を無視している。

 

    「滅する性質のものは、諸々の事象である。怠ることなく修行せよ。」
                                       (パーリ語原典『ディーガ・ニカーヤ』16・6・7)
    「諸々の事象は、滅する性質のものである。怠ることなく修行せよ。」

 

■6■子細な事のようだが、語る内容ではなく語る論理そのものについて考える場合、このあたりの細やかさがなけれは根本から間違ってしまいかねない。元々インド・アーリア語族にはテトラ・レンマ的発想があったものの、二元の論理を一元に統合する流れと、4値に展開する流れに大きく別れて展開した。

 

 

■7■西洋の論理学には文章の否定しかない。東洋の論理学には文と語の否定がある。現代の西洋論理学は「ものは有る」という「有」の立場を取っている。この立場で単語の否定を入れると、存在論的な立場は簡単に崩れてしまうので単語の否定は排除される。4値論理は認識論的な「有と無」の立場を取る。

 

■8■否定には2種類ある。「文」の否定と「単語」の否定である。単語の否定には、基本的に2種類の解釈がある。文の否定と同じ意味をもつものと、名付けられたものの属性を否定する場合である。この2種類の否定の併存を許容できない西洋の「2値」の論理学はこの「2種2階の否定」を受容できない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


4値は東に、2値は西に

 

■1■「四句分別・テトラレンマ」は古代インドの仏教僧ナーガルジュナ(龍樹…150〜250年頃)が確定した「世界を観る方法」だが、すでに言及したようにその原型は『リグ・ヴェーダ』のナサディヤ・スクタ(10.129)の中にも見出される。論理学の様々な分野の用語を用いて存在論的な思索がなされている。

 

■2■これは後に「四句分別」の4つの円(「Aである」「Aでない」「AであってAでない」「AではないしAでないということもない」)と言う形で再定式化されることになる。肯定、否定、肯定且つ否定、肯定せず否定せずという4句からなる。なお「テトラ・レンマ」は四句分別のギリシア語訳である。

 

     1 肯定 西洋排中律
     2 否定 西洋排中律
     3 肯定でも否定でもない 東洋容中律
     4 肯定でも否定でもある 東洋容中律

 

■3■またリグ・ヴェーダの中の「宇宙開闢の歌」の冒頭には、無も有もなかったという内容の表現があり、形式化はなされていないものの、ここにも同じ思考スタイルを見て取ることができる。2点を線の両端に固定するディレンマに対して、テトラレンマは4つの端点を持つ正4面体のように自由度が高い。

 

■4■シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の中の“To be, or not to be : that is the question.” というセリフの最も有名な訳は、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」だが、これもテトラ・レンマなら「生きるべきか、死ぬべきか、死んで生きるか、生きも死にもせずか」と深い含意を持つ。

 

■5■テトラレンマとは西洋の「論理」に対して、東洋の「非論理」と呼ばれる。この「非論理」は「無論理」ではなく、西洋論理とは違うもう1つの論理を意味する。テトラレンマとは世界を観る「知性」(intelligence)でなく「叡智」(sophia)だ。西洋の論理知性においてのパラドクスは問題ではなくなる。

 

 

■6■「レンマ」は哲学用語の1つで「律」「句」の意味だ。テトラレンマという名前の思考スタイルは、これを4つ使って構成される。これはインド古来の思考様式と言われている。古代ギリシアに発する西洋のロゴス論理は、それより古いテトラ・レンマの中の最初の二律のみへ特化しての論理と言えよう。

 

■7■ロゴス論理は言わば、「四句分別」(テトラレンマTetralemma)に対して、葛藤という意味を伴う前の「二句分別」(ディレンマDilemma)である。西洋的なものであるロゴス(科学、論理、言語、言語依拠制度、[個物]同一性)を、四句分別は東アジア的に空無化もしくは相対化することを可能にする。

 

■8■古代ギリシアの懐疑主義哲学者ピュロンは、ロゴスの体系化をなしたアリストテレスが教育したアレクサンドロス大王のアジア遠征に加わって、インドを訪れたことがある。そのピュロンについてのアリストクレスによる記述の中には、ピュロンが口にしたとされるテトラレンマ的な言説があるという。

 

■9■釈迦による初期の仏教は、縁起主義に立って四句分別を排している。しかし龍樹は大乗仏教中観派の礎としての『中論』で、四句分別を肯定的に捉えている。また『ジャイナ教綱要』では「七句分別」の主張というものがあり、四句分別と共通するところが多分にあるが、それよりなお複雑になっている。

 

■10■元々はサンスクリット語でチャトゥシュコーティ(catuskoti)が東に行って漢訳の「四句分別」となり、西に行ってギシリャ語の「テトラレンマ」となったが、ギリシアでは「二句分別」の強力なロゴス論理が主となったということだ。別の表現をすれば「4値は東に、2値は西に」ということになろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


インダス文明とリグ・ベーダ (4の歌 B-9曲)

 

■1■前2600〜前1800年を中心に、現在のパキスタン領内のモヘンジョ・ダロとハラッパーを2大中心地としてインダス文明が栄えた。この文明の文字は解読されておらず、この文明の宗教・思想は未だ憶測の域を出ない。このインダス文明末期、アーリア人がヒンドゥークシュ山脈を越えて西北インドに侵入した。

 

■2■パンジャープ地方に定住した彼らは、後の文字の発達とともにインド最古の宗教文献である数多くのヴェーダ聖典群を編纂・文書化した。中でも紀元前13世紀を中心に成立した『リヴェ・ベーダ』はとりわけ古くかつ重要な位置にあり、インド・アーリア人がインドに侵入した紀元前18世紀頃にまで遡れる。

 

 

■3■『リヴェ・ベーダ』は古代より長い間口承されてきたもので、元々はヴェーダの「ことば」を意味する語であり、呪力に満ちた「賛歌・呪句」を表した。財産・戦勝・長寿・幸運を乞うて神々の恩恵と加護を祈った讃歌の集録である。最初期の神への讃歌の中にはテトラレンマ的世界観が既に存在している。

■4■やがてそれらに内在する「神秘力」の意味で用いられ、さらにこの力から「宇宙を支配する原理」とされた。サンスクリットの古形に当たるヴェーダ語で書かれており、全10巻1028篇の讃歌からなる。アーリア人が残したこの偉大な文化遺産は、インドの思想・文化の根元的理解に欠かすことができない。

 

■5■梵「ブラフマン」宇宙原理と我「アートマン」個体原理が本質において同一であることを瞑想の中で明確に直観することを目指すのが梵我一如の思想である。これによって無知と破滅が克服され、永遠の至福が得られるとする。梵我一如の思想の背景にあるのは、ヴェーダ祭式の「同一視の論理」である。

 

 

■6■この「同一視の論理」とは獲物の足跡を獲物の足と同一視し、それに傷をつければ獲物は遠くへ逃げることができなくなると考えるような呪術の論理だ。ヴェーダの祭式では、祭式の場にあるものを神話の世界や自然界の事物と同一視した観点から、呪術によってそれらを操作し自然を支配しようとする。

 

■7■ウパニシャッドの哲人たちは、この同一視の論理を祭式ではなく、能動的な瞑想で用いた。異なる2つの対象を同一のものとみなして意識を集中し、分別による知を乗り越えて対象の中に入り、主観は対象と融合する。対象と1つになることにより、その力や性質が自分のものとなり、体得が可能となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


強い二元論と弱い二元論

 

■1■神か悪魔か、正義か悪か、味方か敵かというように世界を区分し、自らが属する側のみで世界を統治し、対立するものは殲滅してもよしとするのが欧米的な思考法だ。これを「硬い2元論」と呼ぼう。強固な1人称が前提となり、「汝−我」と「我−それ」が強固で明確な2人称と3人称を構成している。

 

■2■それに対して例えば中国の陰陽思想などは、昼夜・男女・光陰・表裏などのように2元的に捉えはするが、相補的に2者で1つの総体として相互に増減・律動しながら展開しゆく。これを「柔らかい元論」と呼ぼう。どちらがより良いかという短絡的な比較を始める発想もまた、硬い方の2元論的である。

 

■3■強い二元論と弱い二元論は、生物の外骨格系と内骨格系にも少し似ている。体の外部を硬い骨格で覆うことを選択した外骨格系の動物は、環境の大激変に適応できずに絶滅してしまうのに対して、体の内側に背骨を持った内骨格系の動物は、大量絶滅に際してもどうにか柔軟に適応して生き延びるのだ。

 

 

■4■現在は偽典とされている旧約聖書の『エノク書』の記述を見てみよう。人間の見張り役だったシェミハザら天使の一団が、地上の人間の娘たちに魅かれてしまい、集団で下界に降りて文明と魔術を教えた。やがて巨人ネフェリムが生まれる。暴虐は地上に満ち、人間は堕落して道を踏み外すようになった。

 

■5■これを知って神は怒り、大洪水で地上世界を終わらせることを決意した。堕落した人間たちは水によって滅ぼされ、堕落した天使たちは劫火によって焼き尽くされるが死ぬことはできず、荒野に放逐されてしまう。東洋人はこの人間の娘に惚れた天使たちに同情心を抱き、神に違和感を抱かないだろうか。

 

 

■6■こちらは6世紀半ばの話。神通力を身につけた久米仙人が、仙力で空を飛んでいたところ、河原で洗濯していた娘のふとももに見惚れて法力を失くし墜落してしまう。しかしこの2人はめでたく結ばれ、久米仙人は俗人として暮らしたのである。仙人は天使ではないが、話の柔らかさが全然違っていよう。

 

■7■聖武天皇による東大寺大仏殿建立の時、仕事仲間から「仙術を使って一気に仕事をしたらどうだ」とからかわれて発奮した彼は、7日7晩祈り続けて法力を回復し、山にあった材木を次々と都に飛ばした。天皇は大いに喜んで免田30町を賜り、仙人はそれを元に寺を建てた。久米寺は今も奈良に現存する。

 

■8■どちらが正しくどちらが間違っているという話ではないが、どちらがより肌に合うかは日本人的には言わずもがなであろう。厳密過ぎる二元論は現実にそぐわないことがある。世界には例外が多いのだ。天使は性別がないとも両性具有であるとも言われるが、少なくとも堕天使は子を産ませる力があった。

 

 

■9■有性生殖の生物は一般的に雌雄異体だが、カタツムリやミミズの個体は卵子と精子を持つ雌雄同体であり、他の個体と相互に交尾して受精し産卵する。また南米のピュラチレンシスという生物は男性器と女性器を持ち、単独で繁殖が可能である。1と2の間にも、様々なグラデーションがあり得るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二元論とその超越

 

■1■二元論とは、世界やそこに生起する事象は相互に還元不可能な2つの基本的実体もしくは原理から構成されるとする概念のことだ。両性生殖や受胎細胞の分割などの生物学的戦略と同様に、人間が世界を認識する際も、数的把握の最も原初的な基本単位である「二分割」による数的把握がその基底にある。

 

■2■古代インドにおいては、意識の最も深い内側にある個の根源であるアートマンと、宇宙の根本原理であるアートマンの二元論だった。しかし小宇宙と大宇宙の照応観念を背景としたウパニシャッドの神秘主義的な直感により、アートマン=ブラフマン(梵我一如)として、一元論に還元されることになった。

 

■3■しかし仏教(特に禅仏教等)では、分別知(1)は悟りに到るための障害となるものとされ、そこにある知るものと知られるもの、相対的な主観・客観との対立を超越した真実の智慧である無分別知を立てている。識別・弁別する分別智に対して、それを超えた絶対的な智慧である。無知の知と一部通じる。

 

1)分別はブンベツと読むごみなどの仕分け等の意味ではなく、フンベツと読む仏教の分別知のこと。

 

■4■中国で発達した陰陽思想では、世界は陰と陽の2要素から成り立っているとした。ただし様々なものに対応付けられているこの2要素は必ずしも対立するのではなく、双方が互いに相補的であり、2つで1つの流動的調和を生むものとして捉えられる。一神教のような他方殲滅による一元化の発想はない。

 

■5■それに対して西洋の神学における二元論は、唯一神を根本に据えて、世界を常に対立する二元に弁別したものであり、一方に属するものは他方を隷属させたり殲滅したりすることを良しとする根拠となしている。それぞれの絶対神が異なれば、それを背景とした独善的世界観の元、互いに憎悪し戦い合う。

 

■6■異なるフェイズでは、精神と物質の関係に基づく心身二元論がある。最も有名なものはデカルトの実体二元論で、機械論的な存在である物質と、自由意志の担い手である思推実体を対置されていた。これに対して心も物質も根本的には同じとする一元論があった。現代の文脈では唯物論、物理主義がある。

 

■7■西洋の科学哲学においては、主に物事を主体と客体(観察者と被観察者)に分けて論じる方法を用いる。見るものと見られるもの、知るものと知られるもの、あるいは意識と物という枠組みの主客二元論である。しかし観察という行為自体が観察される現象に与えてしまうという、観察者効果問題もある。

 

■8■二元論的世界観とその論点には「主観と客観」「思考と対象」「意識と無意識」「自我と非自我」など様々な範疇の対構造があり、それらが互いに多岐に渡って入り組んだまま論じられることでより複雑なものになる可能性があり、科学的には二分法そのものに致命的な欠点が内在すると批判されている。

 

■9■大乗仏教の根本経典の『般若経』は、言語習慣に拘泥した主客対立の分別を徹底的に否定した。この否定に基づく智慧の立場が無分別智である。唯識説ではこれを根本無分別智と呼ぶ。その前段階の加行無分別智と、会得後に再び言語表現の世界へ帰還する後得無分別智も含め、二元論は克服されている。

 

)加行無分別智、(けぎょうむぶんべっち)後得無分別智(ごとくむぶんべっち)と読む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「正面」を向くということ

 

■1■「知覚正面」という難しそうな単語はしばし横に置き、身体にとっての前ではなく「正面」について考えよう。ダンサーの田中泯さんが「僕の踊りはカメラを正面にしていない」と語った。観客(見る人)のいる方向を正面に見立てて、様々な芸能や演武は為されている。相撲にも正面と向う上面がある。

■2■バレーは観客の視座で自分の姿を見るために鏡の前で練習する。1つ反転がそこにはある。しかし自然の中で身体に沿って踊る泯さんの言う「正面」は意味が異なる。全てが正面なのか、正面はないのか。そういう概念の横滑りではない。泯さんは動物の正面は面ではなく点だと言う。意識の面点変換だ。

■3■脊索動物は進化の過程で呼吸方法を変えて水中より上陸した。前後左右の方向に、重力という上下方向が身体を貫いた。6倍の重力に対して自らの身体を支え動くために四肢を発達させた。顔の角度を90度変えることで進行方向を見据えた。やがて重力に抗して直立すると、顔面は再び90度角度を変えた。

■3■しかし泯さんの言う「動物の正面は点」とは、動物が本能と環境に添って自然と一体となって生きていくことを指しているように思える。鏡は正面ではないが、正面性を意識させる神器ではある。私達は過去の記憶や未来の予測も含めた世界を世界鏡として見据える。3次元空間の中にそれは収まらない。

■4■前世紀末にBOBは「重力は人間の意識の総体」という類の物言いをしていた。それは今でもアリなのかもしれないが、個々の重力力線の一方をたどれば、たしかに地球の中心方向で1つになり、逆方向は全方向に拡散する。見る視座がある顔を「面」と言う。正面は視座の前方でなく後方かもしれない。

■5■人間の意識と関わりのある重力はまた、私達の身体感覚とも分かちがたく係わっている。勝者は重力を味方にする。様々な格闘技は相手を倒して大地に横たわせようとする。柔道やレスリングでは背を大地につけ、腹を天空に向けさせようとする。動物が腹を見せるのは服従のしるしだ。2足歩行と4足。

■6■『あしたのジョー』というアニメに「明日はどっちだ!?」という決めフレーズがあったが、それは明らかに3次元空間の中にはない。もしくは全ての方向が明日だった。芸を極めんとする者は能楽における「翁」という1点の向う側を正面とすることではなかろうか。自らの身体の中心の反転した向う側。

■7■完成された芸術作品に対して正面を向くのではない。自らの人生を1つの壮大な作品として完成すべく生きる、その生きざまを向ける「正面」を考えるということでもある。重力や回転加速度や腸管の蠢きでもある心を繊細に感受する身体そのものが、向けるべき1つの正面そのものでもありはしないか。

■8■観念ばかりの難しげな話ではなく、誰にも身近な身体感覚を通して話を進めようと思ったけれど、結局別の難しげな話になってしまったかもしれない。しかし私達は芸能や哲学だけでなく、いまだ生物進化の途上にあると自覚して、身体感覚も含めて向くべき「正面」について考える必要があるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


陽だまりに猫玉みっつ

 

★当家の窓際は晴れていれば真冬でも音質のごとく温かいので、ついお昼に寝落ちしてしまった。そして目が覚めたらなんかすぐ傍に猫玉が3個転がってた。愚妻が昨日買って来ていた、爪とぎ兼用の御皿型ダンボールに one on one してた。

 

 

★この絵づらが面白いからと、そーっとスマホに手を伸ばして取り敢えずシャッターを押した。そうしたらしばらくして3匹とも「あー寝た寝た」って感じて揃って起き出した。なんか寝た真似しててこっちがおちょくられたような感じだった。

 

 

★現今はHPの新ページ制作中で書き込み不如意だけど、一応猫紹介。左から今年で15歳の「みかん」姐さん、黒猫「海」さん1歳半、白っぽ「空」さん半歳。オーダーのまんまのレディース。主に真夜中につるんで家中を爆走します。被害甚大。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


BABYMETALの3人を描く

 

     (1)HBの鉛筆だけで描いてみる。

 

 

     (2)コントラストを調整する。

 


 
     (3)赤を2重に乗せてみる。
 

 
     (4)黒も2重に乗せてみる。
 

 
     (5)背景色と文字を入れてみる。
 

 
     (6)背景色を変えてみる。
 
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手書きの原稿が一番好きだけれど、画像処理したものも嫌いではない。














 

『バイオハザード/ザ・ファイナル』

        

        映画『バイオハザード/ざ・ファイナル』のパンフレットの表紙より

 

★『バイオハザード/ザ・ファイナル』を観てきた。今回の完結編まで全部で6本だが、シリーズにありがちな整合性の破綻や中弛みも特になく、それなりに見事に完結していると思う。

★第1作の『バイオハザード』を観たのが2002年で、映画の世界では15年間この世界観を保ってきたわけだが、個人的には1996年にPlaystationのアドベンチャーゲーム『バイオハザード』から続くものだった。

★これまでにも沢山のゾンビ系の映画があったわけだが、様々に洗脳されている現代社会と無意識のうちに重ね合わせたりできるからだろうか、個人的には結構ゾンビ系ディストピア系の映画も好きだった。

★高窓から大都会の雑踏を眺下していて、これらがみなゾンビだったらと考えてみて、その奇妙な現実感におののいたことがある。未来を見据える眼を自ら放棄した者はすでに死んでいるとも表現される。

★「お前はすでに死んでいる。」『北斗の拳』のケンシロウの有名な決めぜりふだが、己れの身が弾けるまで当人はそのことを自覚できない。ゾンビ状態であるならば、さらにそこから死ぬという選択肢もある。

★未だ目覚めていない者が自力で覚醒する時、それを「2度生まれ」(ドウィジャ)と呼ぶ。裏の裏は表。ただし2度めの表は、以前と同じ風景や生き様であっても、それでもそれは全く新しい。

★同じでかつ同じではないということが矛盾ではないところでは、死んでいる状態からさらに死ぬという裏の裏もまた、単なる肉体的な死とは異なる在りようではなかろうか。「2度死に」。
-★この映画を観終わった直後の脳内感想としては、「個人的にはゾンビのメタファー、そして世界観としてのディストピアの類は、この映画でゾンビ系の映画はもう目出度く打ち止めで良いなあ」というものだった。

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★自分の過去のブログで、こんなゾンビ映画観のようなものがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


再びSU-METALを描いてみる



     鉛筆で描いてみる。



コントラストの調整。



     赤色の着色をしてみる。



   黒色も着色して、文字と背景を入れてみる。


黒と赤をより加筆して、全体をそれとなくまとめてみる。

















 


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