志を同じくする惑星遊牧民

     

■現代人は自我を持った個人としての存在を呈しているが、何らかの帰属意識を持つことなく、個人だけで正常に生きていくことは難しい。しかし帰属意識というものが誰にでも均質なものと捉えるのは愚行であろう。農耕民は土地を領土として大切にし、遊牧民は土地より構成員たる人の集団を大切にする。

■もちろんザックリした表現ではあるが、現在の日本人をどう定義づけるかは別として、私たちは歴史的にも遺伝的にも、100%の農耕民でも遊牧民でもないので、思考や意思共有に日本語を用いるとか、伝統的な文化慣習等も含めた帰属意識も含めて、2者間の様々なスペクトルとして自覚されるであろう。

■個人的意識の自覚と表明としては、国土や地域に縛られることを嫌い、世界観や未来方向を共有しつつ自由に移動できる、ある意味での現代の遊牧民的なものに帰属意識を持っている。もちろん日本語を用いて情緒と思考を共有することに、国家を守るために命を賭すという観念は、幻想と感じて馴染まない。

■もちろん逆の感性や思考の人の存在も否定しない。私個人としても農耕をすることは嫌いではない。しかし全体主義的な括りで、義務としてほぼ2次元的な国土の界面である国境の内部として象徴される国家という概念にはさほどリアリティを感じない。歴史的過去は否定しないが、未来を強奪されもしない。

■国を超えた地球レベルで共有できる文化や学問・世界観や人間的佇まいは沢山ある。それら様々な価値観と未来を共有できる、未だ会っていない人も含めて、国を守るために死ぬのも当然であるという主義主張をせざるを得ない発想がやがて過去になることを信じつつ、志を同じくする惑星遊牧民に帰属する。

■部分は全体に照応する。自分たちは食さないけれど、商品として在り捌くために心をこめずに生産し、自分たちの食する分はちゃっかり別に作っているような者と、極力自他を害することのない自然なものを丹精込めて作る、ある意味で本当の日本人的な気質を持った者とを、どう対応させるかは自明だろう。

■言うまでもないことだが、「農耕」と「遊牧」という対表現はメタファーだ。2値であるより願わくば4値を背景に見てほしいところである。













自己他者問題とぼけつっこみ



■1■うーん、どこで間違えたのだろうと遡って考えてみると、2元的な思考の論理そのものと、用いている言語自体の固着した曖昧さが宜しくないということになった。

 

■2■奇妙な結論が出た時、それを逆に推論する道筋でも、同様の論理や思考形態を用いている限り、より奇妙な所に着地すると自覚するのに不可欠なのはお笑いなんだ。

 

■3■2元論的な「生・死・苦・楽」は、4値論理的な「生は苦」「死は楽」「生も死も苦でも楽でもない」「生も死も苦でも楽でもある」なら、最後のヤツがいいなあ。












 


相似形間を同型対応視する姿勢



■画像上の右半分はシュタイナー教育プログラム中の「素数糸かけワーク」の作品であり、左半分は「地球暦」(比較しやすいように反転してある))である。惑星軌道と、素数ごとにピンを飛ばして結ぶ線が作る多重円が似ていると思う人はいるはずだ。これをどう捉えるかが問題であり思考の道筋でもある。

■もちろん外惑星の軌道全体とも重ねてみることはできようし、順繰りに素数を増やしていくのではなく、重要そうな素数だけで多重円を描くこともできよう。左脳的計算で重なりそうになところを絞り出すことはできようが、右脳的感覚及びひとつひとつ手作業で構築していく作業もとても重要だと思われる。



■逆に水星の公転周期88日分のピンでやってみるとか、金星の225日や地球の365日分のピンを立てての試みも可能であろう。ピンが多すぎると思うならば、364+1の13の月の暦の構造を念頭に、地球暦上の各月初日の13ピンからスタートして、素数ではなく1つ飛ばし2つ飛ばし3つ飛ばし…としてもいい。

■相似形のものを同型対応してみるということ。暦と惑星軌道、素数糸かけワークや、辻麻里子氏の『宇宙時計』の諸図や、平面から立体に立ち上げたものとして捉えられれば惑星グリッドにまでも繋げ見ることもできる。しかしまだ実際にその半歩先に踏み出した者は少ない。ぜひ先駆者になってみてほしい。



■真円のこのようなワーク作品を見ていて、楕円のものも制作したらどんなものになるのだろうと思うこともある。たとえば冥王星の楕円軌道に沿った分割のものはどんな感じなのだろう?透明のボードで普通に制作して、それを傾斜してみればよさそうだが、実際に楕円で制作するとまた意識が違う気がする。

■平面を立体球面上に立ち上げるということもまた、いろいろ考えるだけでなく実際にやってみたいことではある。球の表面上の対称的な位置にピンを打って糸でどんどんつないでいくのである。正多面体や準正多面体の点を球面上に投影して相互につないでいくということ。1つの究極が惑星グリッドである。

■ちなみに楕円の中心点は2つある。惑星軌道は完全なる真円はまずなく(金星ですら)、その様々な楕円軌道の中心点の1つに太陽がある。もう1つの中心点には何もない。しかし個人が自明と思っている「自分」という意識のもう1つの中心点に、「未自分」を想定する豊かさも必要なのではなかろうか。 













胎児と胎盤と人間の持つホロニックな時間

 

■1■胎盤は実にユニークな臓器だ。胎児の生命に不可欠なのに、短期間しか存在しない。胎盤はその短い務めの間、胎児を守る防壁となっている。またその血管は母体から胎児へ酸素と栄養分を運んでいる。実に長い間、胎盤は過小評価されてきたといえる。胎盤が単なるパイプ以上のものであることが最近の研究でわかってきた。胎児の保護に積極的な役割を果たしているほか,神経系の発達にも関与している。

■2■受精卵が子宮内膜に着床すると子宮内膜に根を下ろし始め、すぐに母体から栄養を得ようとする。この根の働きをする部分は絨毛といい、これが後に胎盤へと変化する。着床するとすぐにこの絨毛組織からヒト絨毛性性腺刺激ホルモン()が分泌され妊娠継続に重要な働きをする。妊娠3週の頃から徐々に作られていた胎盤は、15〜16週頃に完成する。この時点で胎児に栄養を供給してきた卵黄のうの役目は終わる。

■3■胎盤は受精卵が着床した妊娠3週くらいからでき始め、完成するのは15週頃である。この形成時間は(15−3=)12週で、日にちにすると84日である。84は2×42=3×28=4×21=6×14=7×12と様々に分割することができる。杉山開知氏は受胎から出産までの妊娠の全期間を42週として捉えたが、1/2週は84時間なので、この全妊娠期間は「84時間×84周期」と捉え直すこともできるだろう。

■4■開知氏は現今の日本人の平均寿命をベースにして、人間の一生を天王星の公転周期の84年にも対応させている。すでに見たように84そのものが多くの約数を持っている。羊水の中で生きるという意味で水生生物だった胎盤と胎児が、出産後反転して大気の中で呼吸する陸上生物として生きる人間の全体を、84時間・84日・84/2週・84年という、連結するホロニックな内部構造として見て取ることができる。

■5■この産道を通過して次元を超える前後を、上陸後の私たちの論理でシンプルに42週と84年に対比するのは、生命時間の流れは均一ではないので正確ではなかろう。しかしそれでも平均という操作で見ると、胎児と人間との物理的時間をの比は、ほぼ104.286:1となっている。この値は水の酸素原子を中心とした水素2つの作る角度の104.45度を連想させる。また太陽と地球の大きさの比にも近似している。

)hCG…human Chorionic Gonadotropin














胎盤および胎児付属物について



■0■私たちが人間として存在しているのは父親と母親がいたからであり、この2者に対しては普通に感謝の念は生じる。しかし胎盤という片割れへの感謝はさほどない。胎盤は私たちが成長する過程においての胎児の呼吸器系・循環器系・消化器系・泌尿器系、そして免疫系という各種臓器の働きを全て代行してくれた。つまり胎盤は胎児の臓器であり、胎盤がなければお腹の中で私たちは育つことができなかった。

■1■胎盤はまだひとり立ちしていない胎児の各種臓器を代行する「万能の臓器」といっても過言ではない。胎盤に各部を常にあるべき正常な姿に保とうとする調節機能が備わっているのは、生命の必然である。胎盤は培養装置でもあり、人工心肺装置でもある。胎盤は非妊娠時には形成されることはない。哺乳類の進化の過程でこの胎盤機能がどのように獲得されたのかについては、実は何も分かっていないのだ。

■2■胎盤と胎児は同じ受精卵から発生した一卵性双胎である。しかしその姿のみならず両者の運命はことごとく違っている。胎盤の生活はひたすら兄弟である胎児を育てることに費やされ、胎児が出生すると子宮外へ排出されてその生命を閉じる。一方の胎児は、胎盤に守られながら出生前を過ごし、生まれ出ると、そこから地上生活者としての人生が始まる。妊娠中は胎盤からの様々な情報がとても重要である。



■3■胎盤は胎児と母体が一緒に共有する、つまり他者と共有するまれな臓器である。母親と胎児は父親を介して半異物の関係なので、血液型が違う場合なども含めて、直接血液が入り交じるわけにはいかない。母体血と胎児血は基本的には混じることがない別の空間にある。しかしガス交換や栄養輸送は必要である。この矛盾は、絨毛間腔において直接血液を触れあうことなく物質交換することで解決している。

■4■母親と胎児はそれぞれのDNAを介して情報を交換している。胎児のDNAの半量は父親由来であり、母親にとっては遺伝的に他者のものなので異物である。母親は胎児を介して他者の遺伝子を受け取る。すなわち女性は母親になることでキメラ(異なる受精卵に由来する遺伝子をひとりの中に有する状態)になるのである。この普遍的現象にどのような生物学的な意味があるのか現時点では分かっていない。

■5■プラセンタ(胎盤)は、胎児の発育のためには必要不可欠な組織で、母体の中で、わずか10ケ月の間に1個の受精卵を一人の人間にまで育て上げる驚異的な働きを持った組織である。したがって胎児への栄養補給のためには各種栄養素がこの組織に集中し、また多数の生理活性物質が産生され貯えられていることが知られている。胎盤に関する様々な研究によっても、未だに解明されていないことが多数ある。



■6■たとえば人間以外の動物では肉食動物ばかりでなく草食動物までもが、出産直後に自分の体内から出てきた胎盤を食べてしまう。出産の臭いを消し、外敵から身を守るためとの説があるが、栄養豊富な胎盤を食べることで、産後の体力回復に役立てるためとの説もある。胎盤には母乳の分泌を促進する作用もあり、子育てにも有効である。科学的にも未知なる部分の多い、偉大かつ神秘性を秘めた組織である。

■7■子宮は胎児を育てる場所だが、胎盤などは作ってくれないので、胎児は自分が育つために必要な環境を自分で作る必要がある。初めは1つだった受精卵が分裂して胎児になるが、すべて胎児になるわけではない。胎児に栄養を供給する仕組みに分裂していく細胞(胎盤や臍帯)や胎児を包んでいる膜(卵膜)に分裂する細胞もある。この環境を形成する構造物を胎児付属物といい、以下のようなものがある。

■8■母体からの栄養や酸素を受け取り、老廃物を母体へ返す、物質交換の場である 「胎盤」、 胎盤から胎児へ酸素や栄養の輸送を行う「臍帯」、 胎児の発育するスペースを確保する「羊水」、 胎児や羊水を包んでいる「卵膜」。これら胎児付属物は元は一つの受精卵から分化したもので、母体側の子宮が作り出したものではない。後産として共に出てくる羊膜・臍帯などを含めて胞衣(えな)とも称されている。



■9■胎児は自分で接食も呼吸もできないので、母体から栄養や酸素をもらう必要があるし、老廃物の排泄もしなくてはならない。母体が食べた栄養分や肺呼吸で得た酸素は血液の中に含まれて子宮動脈を介して子宮に注がれる。子宮の内側に胎盤があり、子宮内腔と胎盤の母体面とが接しているところで母体からの栄養や酸素と胎児からの老廃物や二酸化炭素が交換され、へその緒(臍帯)を介して胎児に供給される。

■10■胎児は子宮の中に直接入っているわけではなく、卵膜という閉じた非常に薄い袋状の膜の中に胎盤・臍帯・羊水と共に納まっている。卵膜は胎児側(内側)から羊膜、絨毛膜、脱落膜という3枚の膜からなる。一番外側の脱落膜だけ母体成分であり、元々は子宮内膜だったが変化したものである。卵膜は外界と胎児を隔離しているバリアーであり、細菌の進入阻止や羊水の保持のためにとても重要な膜である。

■11■臍帯の内部にはこんにゃくのようにぷりぷりした軟らかい組織が取り巻いている3本の血管がある。3本の血管は1本の太い臍静脈と2本の細い臍動脈からなる。 太い臍静脈には、栄養や酸素を含んだきれいな動脈血が母体から胎児に向けて流れている。 細い臍動脈には、老廃物や二酸化炭素を含んだ静脈血が胎児から母体に向けて流れている。臍帯は一般的な動脈と静脈とは流れているものが逆である。



■12■卵膜の一番内側の膜である羊膜は羊膜腔という空間を作り、その中に羊水を蓄えている。 妊娠の初期は羊膜表面の細胞で作られるが、後に羊水は母体からの水分の供給、胎児尿、胎児の気道からの分泌液で構成されるようになる。妊娠11週頃からは胎児は尿をするので羊水の量がぐんと増加する。 10週頃は30ml、20週で350ml、32〜36週くらいがピークで700〜1000mlほど。 その後は徐々に減少する。

■13■羊水の99%は水分だが、同じものがずっと溜まっているわけではなく、約3時間で完全に新しいものになるという。 大量の水分がつねに羊膜絨毛膜を通過して母体の循環系に戻されており、胎児は尿を作り出しそれを羊膜腔内に排泄している。 また、胎児は羊水を1日400mlほど飲み込んでいると考えられている。 このように作られる量と母体に戻される量が釣り合って見かけ上一定の量に保たれている。

■14■ブラセンタを用いた様々な療法がこれからどんどん増えていこうとしているようだ。化学的な薬の投与とは全く異なり、副作用がない上に多数の効用があるプラセンタだが、このような用い方は本当に人間として真っ当なのだろうかという疑問がある。更年期障害や癌の末期症状にも効果があるという。もちろん緊急の場合に用いるのはしかたないだろう。しかしそれに依存して生きるのは本末転倒である。



■15■胎盤についてある程度正しく認識すれば、自らの現在の在りようを含めて生命に対する感謝と畏敬の念が湧いてくる。本当に未来を愛する姿勢があれば、究極的には、胎盤エキスを注射や内服したりする必要がなくなるのではなかろうか。それを用いようが用いまいが、若く美しく健やかに保たれた体を用いて、人間として今と未来に向けて何をしようとするのかが最も重要なのではなかろうか。

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■今までは胎盤について何も知らなかった。知識を知りもしなかったし教えてももらわなかった。しかし今、自分もお世話になったということの想起をさらに超えて、父親より母親よりもっと自分自身に近い、まさにかけがえのない血と肉を分けた分身であったことを、ほかならぬ自分自身であったことを失念していたことを自覚しよう。

■自分は男だからと目を背けずに、自分は子供を作らないからと耳を塞がずに、女は自らの体で知っているなどとズボラこかないで、今科学的にようやくとてつもなく重要な器官であると認識され始めている胎盤について、自分への無償の慈愛と生命賛歌と生きることへの励ましを今でも感知できるような知性と感性を奮い起こしたい。












 


胎児と胎盤…二而不二の今



■1■2013年の8月上旬のことだ。「地球暦」の製作者である杉山開知氏から電話がかかってきた。胎児の受胎から出産までの期間を42週とし、地球暦上に色分けしてプロットしたいが、何かいいアイデアがないかとのことだった。少し前に彼は公転周期が84年の天王星に人間の一生を重ねて見る作業をやっていたので、42週の胎児期間と84年の人間の一生を地球暦上にホロニックに重ねたらどうかと答えた。

■2■42週は294日である。10月10日(とつきとおか)とは10か月と10日ではなく、10か月目の10日という意味であり、しかもその1か月は太陰暦なので、諸説はあるが9か月+10日とは(29.5×9+10=)275.5日ほどということだ。その起算は最終月経の第1日目を「妊娠0日」とする。まあ妊娠期間は260〜280日と言われているし、42週はほぼぴったり10朔望周期なので、これはこれでよいだろう。

■3■42週と84年とは、1週間が2年もしくは3.5日が1年に対応するわけだ。3.5日はぴったり84時間である。84時間と1年。これが胎児の期間と人間の一生との大まかな比である。この電話のあった翌日、画家の真島 健氏と温泉旅行をした。彼は最近自然分娩の現場に立ち合い、産婆さんに胎盤を見せてもらってから、その絵柄ががらりと変わった。旅の間中胎盤と胎児の関係を通じて世界を見る話をした。



■4■ほとんどの人にはすでにその記憶はないけれど、人間である限り誰もが胎盤とへその緒で1つになって、出産までの胎児期間を過ごしたはずである。この胎児と胎盤の関係は誰にとっても例外なき二而不二の関係の時ではなかろうか。胎盤なき胎児は有り得ないし、胎児なき胎盤はそもそもの存在意義が存在しない。母親と異なる血液型であろうとも、胎児と胎盤は同じ血液型のまま最後まで2にして1である。

■5■真島氏に限らず、現在では母親でも約1/4ほどしか胎盤を見たことがなく、病院では廃棄するのにもお金がかかる。見た者も血まみれでグロテスクだとか、思っていたより大きいとか、これが絆かと感動したなどと様々な感想を持つらしいが、一般男性の多くは、自分も一時期間違いなくお世話になった胎盤というものを改めて見直してみようと考えることにすら、相当の勇気を必要とするのではなかろうか。

■6■しかし母親のお腹の中で決して自分を見限ることなく、最後まで守り育み、命を紡ぎ続けてくれた胎盤を、逃げたり誤魔化したりすることなくイメージした時、自らの内側から感謝の気持ちが湧いて来ないだろうか。そして出産後は用済みの器官として切り話されて消滅した、その他ならぬ自分自身と二而不二の存在だった胎盤に対して、今生きていることの喜びと共に改めて感謝の念を持ちはしないだろうか。



■7■この関係は羊水中の水生生物からこの大気の中で呼吸する人間へと相転換した時に終わったのだろうか。別に感傷的になったりオカルティックになる必要はない。しかし物質として切り離されはしたけれど、異なる次元でその胎盤に相当する二而不二の存在が、自分が死ぬまで決して裏切ったり見捨てたりすることなく、自分自身を愛し慈しみ守り励ましてくれているとイメージできるのは悪いことではない。

■8■このような世界観は各地で多々散見できる。例えばメキシコ南部チアパス州のツォツィル族の霊魂観では、人間の1人1人と運命を共にする動物分身霊ヴァイヘリルがいる。人間が受胎すると同時に、山中で何らかの動物が身ごもり、両者は同時に生まれ落ち、死ぬまで運命を共にするという。保護神が守っているが、動物が傷つけばもう人間も傷つくし、人間が死ねば動物も死ぬという二而不二の関係である。

■9■ネイティブアメリカンの呪術的世界観の中でも、1人1人にそれぞれの守護動物の霊が存在し、そのメディスン・アニマルのキャラクターがその人の気質や行動パターンを特徴づけているとする考え方がある。またかつてのイルカブームの最中には、「人間の1人1人には自分と対になるイルカが必ずいて、地球の海のどこにいてもいつでもテレパシー的につながっている」という類の話しが語られていた。



■10■お気楽なスピリチュアル乗りのつながりも、呪術的な動物分身霊の世界観も、自分と対になる存在との時空を超えた二而不二的リンクという構造では、実によく似た世界観である。それゆえに自分一人で絶対的孤独には陥る必要もないし、いつもその自分と対になる存在を意識し、愛し信じて生きていけば必ずサポートがあるから、自分は肯定的かつ力強く生きていけるという信頼と感謝の双対関係なのである。

■11■「次元の分身」とか「夢見の体」とか「守護天使」などという表現も、多重多次元に連続する「私」の分身として想定できるならば、現代人でも科学的根拠の有無云々という発想とは別のところで、1つの世界観として受け入れる事ができるのではないだろうか。その考え方のみに固執して他の世界観を拒絶するような愚を犯さなければ、この「光の体」とのリンクは結構明るく生きる元気を出させてくれる。

■12■さて胎児と胎盤の二而不二の関係に戻ろう。これら様々な世界観における時空を超えた「分身」的な諸形態を、上下や優劣のある関係ではなく、次元を超えた自分自身と胎盤との二而不二的な関係として捉え直せないだろうか。もしくはこの全世界が自分にとっての子宮でもあり、その胎盤的な存在が指し示す未来への方向が、新たなる産道となるであろうとイメージしてみることも面白くはないだろうか。



■13■これはあくまでも個人的な二而不二のイメージ転用である。この身体の随意と不随意、交感神経と副交感神経、意識と無意識の総体を踏まえながら、自分の中で自分が自覚できない脳内における1/100 Hz刻みの左右脳への振り分けや、無自覚の内に数を繰り返し数えていることなどを考えれば、私自身が数えている時、私が自覚していない未知の私もまた、数と数える者を愛しながら数えている実感がある。

■14■数える私と数えられる物のほかに、同時に数を数えるものがいる…もしくはものがある。そしてその数えるものと私とは二而不二であることに気づくと、数えられている物と私もまた二而不二であるということに思い至る。見ることは数えることであり、数えることは愛することなのだ。数えれば最初から見られ愛されていたことに気づく。既存の数の在りようを超えて、新しく数え始めて行くことにしよう。














二而不二(ににふに)

 

■1■「二而不二」という言葉がある。元々は仏教の言葉で「ににふに」と読み、そのシンプルな意味は「2にして2にあらず」だ。現今の分別の上に成り立っている思考法においては、排中律を認めない論理学的には全き錯誤であり、数学的には有り得ない解であり要素である。しかし当たり前にそれはある。

■2■無分別を弁えた上で思惟分別の世界で数を数えると、それらの数同士にさらなる繋がりを見出すことができ、より福よかに数えられる世界が開ける。そこはまだ未踏に近い地である。しかしこれまでの何者をも否定することなく、それらを超えて新しき一歩を踏み出すことができる知と愛の領域である。

■3■二而不二は1よりも2よりも豊かだ。そしてそれは3も4も含んでいる。数の数え始めの辺りでわさわさと蠢いていた概念だと思っていたけれど、気がつくとそれは1と2という数え始めの根本から覆す数の捉え方であり、新たなる1と2を確かに知り、愛し行くために全く新しく数え始めねばならない。

■4■数える私と数えられる物のほかに、私が気づかなかった数える者が在る。その数える者と私とは二而不二であることに気づくと、数えられている物と私もまた二而不二であるということに思い至る。見ることは数えることであり、数えることは愛することなのだ。数えれば最初から見られ愛されていた。

■5■イン・ラケチ… I am another yourself …の新しい解釈を胸に、これまでのあらゆる数と数えられたものを無に帰することなく、それらに愛され慈しまれていたことを抱きながら、それらを超えて新しく数え始めて行こう。自己他者問題の解の方向性…。4人称には新たなる私と反転と二而不二がある。


そして…胎盤と胎児の関係は二而不二である。(…続く…のか?)












 


説得力と説明力と共感力と



■「新しい世界の見方」や「人間としてのより良い生き方」を自ら見い出す者は少なくない。しかしそれを上手く他者に伝えられる者はさほど多くない。新しいことや未来に繋がるであろうと信じることを表現して行く時、少なくとも説得力と説明力、そして共感力というものが必要となって来るであろう。

■説明は完全なのに心を打たない話もあれば、口下手でも説得力がある人はいる。ひとりよがりは誰もまぬかれない。それでも人柄や慈悲心とは別にそれなりに人間としての理路に沿った説明ができなかったり、思いやりのない説得力を乱用すると、その言動は相手の意思に対して暴力となりかねない。

■言ってもそれを理解せぬ者は愚民だと決めつける尊大さの背後には、自らの説得力と説明力と共感力を磨くという内的鍛錬を怠っていたり、上手く伝えられないことに対するもどかしさを聴く者の側のせいにする無意識のうちの短絡思考がある。聴く人に対する共感力とは想像力と瞬間瞬間の思いやりだ。

■誰もそれはもう十分だということはない。多分十分になったら、何も語らなくてもただそこにいるだけでことたりるようになるのだろう。しかしそれではまだ過程を楽しむ者としてはつまらない。説得力と説明力と共感力。これはただの言葉だ。しかしそれが指示しているものはさほど難しいものではない。

■話者と聴者の差異。知る者と知らざる者との差異。その差異の明確なる認識が(もちろん左脳的にだけではなく)できる時、その差異に沿って智慧と慈愛は滑らかに流れるだろう。合気道では自らが気持ちの良い方向に動くと、相手も共に気持ちの良い方向に動き、戦う気持ちは失せる。思いを1つにするヒントである。 













声を後ろに出してみる

 

■1■私という人間ユニットの視座から空間を見ている時、見えている世界は実は自らの網膜に映るホログラフィックな画像だとイメージしてみる。それは世界を3次元に落とし込んだものだからもう1つの次元は見えない。実際の世界は見ているつもりの視座の背後にある。音はその双方をつなぎうるか。視覚は横に、聴覚は縦に。音を聞くには時間を要する。時間は視覚球面上ではなく、視線方向にある。
 
■2■視覚球面にへばりついているホログラフィックな世界を超えて、あらゆる視線方向すなわち時間方向に滲み出るには、「全体をぼんやりと見るともなく見よ」などと言われる。音の場合は逆だ。意識的に瞬時の中に音の奥行きを聴く作業を要求される。メロディーは時間なくして聞き取れないが、和音は奥行きなく聞き取れる。問題はそこから奥行き方向(時間でもよい)に展開することだ。


 
■3■口下手だから言いたいことが良く分からないかもしれない。人体を用いて実験してもらう方が早い。試しに自らの言葉を発する時、現在のように無意識に前方に出すのではなく、意識的に後方に向けて発声してみよう。そこに何らかの差異を感じられないだろうか。そこは網膜ホログラフではなく、現実の世界のある方向なのだ。ただしそれが見えない聞こえないのは、見る目・聞く耳がまだないからだ。
 
■4■自分が発している音声と、他者がそれを耳にする音とは異なる。確かに自らの音を後で録音などを通して聞くと、他の音は変わらずとも自らの音声は自らが聞いていた音とは異なって聞こえる。しかし片耳を塞ぐなり骨伝導の音を聞くなりすればそれは解消される。問題はその外と内の音の聞こえ方の違いを、自らどう処理するかだ。図と地のように、その両方を同時に聞くことは未だ可能ではない。













 

表と裏の反転は2値ではなく…

 

■1■前衛芸術家でもあった赤瀬川源平が、前世紀にカニ缶のラベルを内側に貼り直し、ハンダ付けで再密封することで世界が反転するという発想を、「宇宙の缶詰」と称して提示したことがある。内と外の反転。当時は斬新だったのだろうが、今世紀になって考えるとなんともナイーブな発想である。

■2■「缶切りは缶の中」。これは昔のコアなマックユーザーをさらにコアにしたようなアミーガユーザーのフレーズだ。システム障害が起きてネットへのアクセスができないので、必要なソフトをネットからダウンロードすべきなのだが、障害下なのでそのアクセスができないような状況を表している。

■3■見当たらない眼鏡を探すための眼鏡はどこに?交番で道を尋ねたいのだがその交番の場所を教えてくれる交番はありませんか?…どこまでも後退するトートロジー的な2値のパラドクスで遊んでいる時代は過ぎつつある。今や缶切りは缶の中にも外にもあるし、そして中にも外にもないのである。

■4■虚実の複素平面上の単位円を反転すると、それは当り前のように4値となって各部位が別個に反転する。しかし全くバラバラにではなく、DNAの塩基ペア同士のような関係で。自己他者問題、奥行きの問題、複素空間…どこにでも良いから3と4を見い出し、5で括って1つとすること。

■5■外側にカニ缶のラベルが貼ってあるからと言って、その内側にもラベルが張り付いていないとは限らない世界。開けて確かめてみるまでは分からないというのは前世紀の発想。シュレディンガーの猫もとうに寿命は尽きている。確率の問題ではないのだ。論理自体についての新しい問題である。













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