強い二元論と弱い二元論

 

■1■神か悪魔か、正義か悪か、味方か敵かというように世界を区分し、自らが属する側のみで世界を統治し、対立するものは殲滅してもよしとするのが欧米的な思考法だ。これを「硬い2元論」と呼ぼう。強固な1人称が前提となり、「汝−我」と「我−それ」が強固で明確な2人称と3人称を構成している。

 

■2■それに対して例えば中国の陰陽思想などは、昼夜・男女・光陰・表裏などのように2元的に捉えはするが、相補的に2者で1つの総体として相互に増減・律動しながら展開しゆく。これを「柔らかい元論」と呼ぼう。どちらがより良いかという短絡的な比較を始める発想もまた、硬い方の2元論的である。

 

■3■強い二元論と弱い二元論は、生物の外骨格系と内骨格系にも少し似ている。体の外部を硬い骨格で覆うことを選択した外骨格系の動物は、環境の大激変に適応できずに絶滅してしまうのに対して、体の内側に背骨を持った内骨格系の動物は、大量絶滅に際してもどうにか柔軟に適応して生き延びるのだ。

 

 

■4■現在は偽典とされている旧約聖書の『エノク書』の記述を見てみよう。人間の見張り役だったシェミハザら天使の一団が、地上の人間の娘たちに魅かれてしまい、集団で下界に降りて文明と魔術を教えた。やがて巨人ネフェリムが生まれる。暴虐は地上に満ち、人間は堕落して道を踏み外すようになった。

 

■5■これを知って神は怒り、大洪水で地上世界を終わらせることを決意した。堕落した人間たちは水によって滅ぼされ、堕落した天使たちは劫火によって焼き尽くされるが死ぬことはできず、荒野に放逐されてしまう。東洋人はこの人間の娘に惚れた天使たちに同情心を抱き、神に違和感を抱かないだろうか。

 

 

■6■こちらは6世紀半ばの話。神通力を身につけた久米仙人が、仙力で空を飛んでいたところ、河原で洗濯していた娘のふとももに見惚れて法力を失くし墜落してしまう。しかしこの2人はめでたく結ばれ、久米仙人は俗人として暮らしたのである。仙人は天使ではないが、話の柔らかさが全然違っていよう。

 

■7■聖武天皇による東大寺大仏殿建立の時、仕事仲間から「仙術を使って一気に仕事をしたらどうだ」とからかわれて発奮した彼は、7日7晩祈り続けて法力を回復し、山にあった材木を次々と都に飛ばした。天皇は大いに喜んで免田30町を賜り、仙人はそれを元に寺を建てた。久米寺は今も奈良に現存する。

 

■8■どちらが正しくどちらが間違っているという話ではないが、どちらがより肌に合うかは日本人的には言わずもがなであろう。厳密過ぎる二元論は現実にそぐわないことがある。世界には例外が多いのだ。天使は性別がないとも両性具有であるとも言われるが、少なくとも堕天使は子を産ませる力があった。

 

 

■9■有性生殖の生物は一般的に雌雄異体だが、カタツムリやミミズの個体は卵子と精子を持つ雌雄同体であり、他の個体と相互に交尾して受精し産卵する。また南米のピュラチレンシスという生物は男性器と女性器を持ち、単独で繁殖が可能である。1と2の間にも、様々なグラデーションがあり得るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二元論とその超越

 

■1■二元論とは、世界やそこに生起する事象は相互に還元不可能な2つの基本的実体もしくは原理から構成されるとする概念のことだ。両性生殖や受胎細胞の分割などの生物学的戦略と同様に、人間が世界を認識する際も、数的把握の最も原初的な基本単位である「二分割」による数的把握がその基底にある。

 

■2■古代インドにおいては、意識の最も深い内側にある個の根源であるアートマンと、宇宙の根本原理であるアートマンの二元論だった。しかし小宇宙と大宇宙の照応観念を背景としたウパニシャッドの神秘主義的な直感により、アートマン=ブラフマン(梵我一如)として、一元論に還元されることになった。

 

■3■しかし仏教(特に禅仏教等)では、分別知(1)は悟りに到るための障害となるものとされ、そこにある知るものと知られるもの、相対的な主観・客観との対立を超越した真実の智慧である無分別知を立てている。識別・弁別する分別智に対して、それを超えた絶対的な智慧である。無知の知と一部通じる。

 

1)分別はブンベツと読むごみなどの仕分け等の意味ではなく、フンベツと読む仏教の分別知のこと。

 

■4■中国で発達した陰陽思想では、世界は陰と陽の2要素から成り立っているとした。ただし様々なものに対応付けられているこの2要素は必ずしも対立するのではなく、双方が互いに相補的であり、2つで1つの流動的調和を生むものとして捉えられる。一神教のような他方殲滅による一元化の発想はない。

 

■5■それに対して西洋の神学における二元論は、唯一神を根本に据えて、世界を常に対立する二元に弁別したものであり、一方に属するものは他方を隷属させたり殲滅したりすることを良しとする根拠となしている。それぞれの絶対神が異なれば、それを背景とした独善的世界観の元、互いに憎悪し戦い合う。

 

■6■異なるフェイズでは、精神と物質の関係に基づく心身二元論がある。最も有名なものはデカルトの実体二元論で、機械論的な存在である物質と、自由意志の担い手である思推実体を対置されていた。これに対して心も物質も根本的には同じとする一元論があった。現代の文脈では唯物論、物理主義がある。

 

■7■西洋の科学哲学においては、主に物事を主体と客体(観察者と被観察者)に分けて論じる方法を用いる。見るものと見られるもの、知るものと知られるもの、あるいは意識と物という枠組みの主客二元論である。しかし観察という行為自体が観察される現象に与えてしまうという、観察者効果問題もある。

 

■8■二元論的世界観とその論点には「主観と客観」「思考と対象」「意識と無意識」「自我と非自我」など様々な範疇の対構造があり、それらが互いに多岐に渡って入り組んだまま論じられることでより複雑なものになる可能性があり、科学的には二分法そのものに致命的な欠点が内在すると批判されている。

 

■9■大乗仏教の根本経典の『般若経』は、言語習慣に拘泥した主客対立の分別を徹底的に否定した。この否定に基づく智慧の立場が無分別智である。唯識説ではこれを根本無分別智と呼ぶ。その前段階の加行無分別智と、会得後に再び言語表現の世界へ帰還する後得無分別智も含め、二元論は克服されている。

 

)加行無分別智、(けぎょうむぶんべっち)後得無分別智(ごとくむぶんべっち)と読む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


身体感覚が基底にある言葉

 

■1■既存ではない未知の概念には対応する言葉がない。そこでヌーソロジーは次々に新しい言葉を創出して、その概念をピン止めして前進し、また後からやって来る者のための里程標とする。詩人は既存の言葉に新しい意味を帯付して、それを未知の領域へ切り開いていく。しかしヌーソロジーでは混乱を招く。

 

■2■例えば「奥行き」と言う日本語に、既存の概念に上書きするように新しい概念を対応させる。言葉は意味と1対1対応ではないので、既存の概念と新しい概念が同じ言葉に同定されている。次元的に対立する言葉は「幅」だ。これが奥行きと対置されることによって、「幅」に否定的な語感が乗せられる。

 

■3■ヌーソロジー用語に日本語対応の日本語翻訳が必要となるわけだが、新しく創出もしくは想起された「語」と、既存の言葉に肩車させた新しい語義を併存させたままで、聞く者に提示するのは少し優しさに欠けている。確信犯的に突き進んでいるBOBはいいのだ。それを他者に伝えたい者の問題である。

 

■4■幼児たちは1歳半を過ぎると「なになに?」連呼の時代が始まる。見るもの聞くものがみな新鮮で、色々なものに眼差しを向け、手を伸ばして、飽くことなく「なに?」と問う。周りの大人は1つ1つその名を教える。ねこ。ちょうちょ。たまねぎ。おねえさん。存在の本質や意味ではなく名前を教える。

 

■5■幼児は名前を聞いて気が済むと、すぐに別のまだ未知なるものに興味を向ける。単なる音の並びではない肉声の響きに聞き耳を立てている。ものと言葉の重なった感触を、自らが様々なものに対して為した舐め回しや撫で回しの感触を元に、根源的類似をもって大脳皮質の連合野で統合しているのだろう。

 

■6■象徴や抽象概念に対する言葉は、目に見え手に触れることのできるものたちの名前とは少し勝手が異なるが、それでも腑に落ちる語感とどうしてもそぐわない語感とがある。幼児は自分に響かないものの名前を教えようとしてもなかなか興味を示さない。それを愚かだと思う大人は何かを忘れているのか。

 

■7■言葉が未発達だった黎明期には、感情や想いがそのまま「顔つき」となって語り掛けたことだろう。やがて咽頭腔・口腔・鼻腔から独自の響きに意味を持たせた言葉として語り掛けただろう。生物学的にエラに由来する鰓腸から声を出す。舌以外の顔面の表情筋もまた、全部鰓の筋肉由来の内臓系である。

 

■8■最も鋭い内臓感覚を持つ唇と舌で母親の乳首を吸った幼児は、生後6か月が過ぎて首が座ると、手当たり次第に周りのものを舐め回す。そして這い回りものを触りまくる。さらにはものたちを眼差しで舐め回す。これらの生体感触を基底にして、私たち1人1人は1つ1つの言葉を体得してきたのである。

 

■9■口下手を恥じる必要はない。心と身体感覚のない言葉を安易に吐くことを恥じ入るべきだ。思いと共に発声する時、内臓触角と共にその響きを聴きいる時、思考や論理や知性のその奥にある生命感覚を失念すまい。感受力を持ってBOBの言葉を聞いてみよう。それでも響かなければBOBの責任である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本人・日本語・日本国2…日本語を正しく用いる者が日本人

■飛鳥イベントの最終日の4日目「日本人・日本語・日本国2…日本語を正しく用いる者が日本人」の動画です。3回に分けて話をしたのに合わせて3つのパートに分けてあります。

録画・編集・制作・総指揮:Hirotaka Tsujino

パート1(1時間11分)



パート2(1時間52分)



パート3(2時間10分)

















 

日本人・日本語・日本国1…われわれはここで日本人になった

■飛鳥イベントの3日目「日本人・日本語・日本国1…われわれはここで日本人になった」の動画です。長いので3つのパートに分けてあります。ツッチーの頑張りでここまであげてくれました。どうぞみなさん、ツッチーにねぎらいと感謝の言葉を掛けてあげて下さい。

まずはパート1(1時間25分)



そしてパート2(1時間12分)



最後にパート3(1時間24分)




















 

オオモノヌシと名付けられる前のそれ(1)



■1■前世紀からずっと、今回は神々も全て総取っ換えだと思っている。現今の神々を否定したり、貶めたりするつもりは毛頭ない。それらを内包して(少なくとも反転することでの内包)はみ出し超えていくつもりだ。もちろんこの「神」という言葉は西洋の一神教的な何かを指すつもりはない。日本の神だ。

■2■人間のいない神はない。少なくとも人間不在の神は人間にとって意味がない。同様にヒト不在の新しい神もない。ヒトにとっての神とはどのようなものなのか?反転した人間のこと?いやそれはもはや人間とは呼ばない。人間がヒトに移行する時、既存の神はどうなるのか?反転移行するものが神なのか。

■3■いやそれは既存の神のもう一つの形態である。元々モノという言葉で指し示そうとしていた、指し示され得なかったモノ。それは何か?言語限界を超えていくためには、ただ机上で観念や概念を転がしているだけではもう追いつけない。共に超えて後に、相互確認することができるなら。神を生きるモノ。

■4■「名もなきものからすべては生まれた」と老子。「吾輩は猫である。名はまだない。」と夏目漱石。しかし猫と言う種の名は既に知っている。草木や鳥虫の名前を沢山知っていて、自然の中でそれらを名指しできることに憧れた。しかし名は知らぬままそれらを認識し慈しむ者はそれより劣るのだろうか?

■5■名は人間のためのものだ。しかも言語が異なれば共有できない。それでも混乱した状況を1つ1つ明確に言語化できれば混乱はなく精神も明晰になる。しかしそれは人間としての明晰であり、言語という者への依存でもある。安易に言語化し、理解したつもりになってしまうのも人間の性向の1つである。

■6■名付けられる前の、未だ名ものなき「それ」。言語を持って言語化され得ぬものを捉えんとする試み。無・虚・非・空等の語をつけて、捉え得ぬものを捉えたことにしたい衝動。現行の論理や知性に収まらない「論理」や「知性」はある。それらまで現在の論理や知性で判断し評価しようとするのは傲慢。

■7■未知なるものに対して謙虚にその未知を認め、観念や無知から畏れ惑うよりも、能動的にその未知を、安易に言語化することなく敬い慈しんでみようとする能動的な気概。既存の言語をそのまま過去の共有遺産として用いるだけでなく、新たな結び付けにより未知を共有しようとすると詩人の言葉となる。

■8■本物の詩人が提示するものは既存の名ではない。名になり行く可能性の提示だ。それを「未だ名もなきモノ」として共に捉えようとする姿勢が新しい名を生む。詩人は単なる名づけ親ではない。それをただ讃え持て囃すのは愚の骨頂だ。分からない時は正直に「分からない」と自分自身にも語り掛けよう。

■9■人間としての名を与えられる前の、生れ出たばかりの赤子に、後日名を与えることで、未だ名もなかったその時の存在までその名で覆ってしまおうとすることの暴力的な無知。それは未だ名付けられる前のそれだったのだ。名をつけられる前と後とで異ならない継続するものは、名もなき体のそれである。

■10■日本人とかオオモノヌシとか。名づけることで名づけられる前のそれまでその名で表し呼ぶことは、今の人間の共有する約束事だから、まあそれはそれで仕方ない。しかし名づけることによってそれを分かったつもりになる愚は、名指しすることの粗雑な傲慢さを自覚して用いることによって軽減される。

■11■名を与えること、名を知ることが一方的に聖なることや超常力を持つことと勘違いするのは、人間としての自覚が足りない。異なる捉え方、異なる表し方もあるという前提と敬意のある上で、謹んで名を呼ぶということの真正な意味あい。意識的な名もなきまま生きるとは生前の死をも生きるということ。

■12■名もなきものからすべては生まれた。名もなきものへとすべてが還りゆく。執着から安直に名を残し、その残影にすがりついて生きずとも、生きるよすがは己の内にすでにある。名と体について知性で論理的に説明するよう努めてみれば、その現今の知性や論理がほんの狭い帯域であることが自覚できる。

(2)はないかもしれない(^^)。














 

ミラーニューロンと自己他者問題



■1■ミラーニューロンは今から20年前の1996年、イタリアのパルマ大学でジャコーモ・リッツォラッティらによって発見された。ミラーニューロンとは、霊長類などの高等動物の脳内で、他者の行動を見て、まるで鏡に映して自分自身が同じ行動を再現するかのように、活動電位を発生させる神経細胞である。

■2■このニューロンはマカクザルで直接観察され、ヒトや幾種かの鳥類においてその存在が信じられている。ヒトにおいては、前運動野と下頭頂葉においてミラーニューロンと一致した脳の活動が観測されている。他者の行動を即時に理解できるのは、見た他者の行動と共鳴するミラーニューロンのおかげだ。

■3■武道世界で言う見取り稽古。教わろうと思うな、見て盗め、と言う職人世界の言葉。日常世界でも、あくびがうつる。笑顔を見ると、ついこちらも微笑んでしまう。泣いている人を見ると、ついもらい泣きする。スポーツ番組を見ていて、思わずプレーヤーと同じ動きをしている自分に気づくこともある。

■4■自分が思っている以上に私たちは周りの影響を受けている。そして自分の一挙手一投足がまた周囲にも影響を及ぼしている。自己と他者が同じ動きをするという神経細胞の活動電位が発生するということは、そのことにより他者を認識すると言うことと同時に、自分自身を自覚するということでもある。

■5■ミラーニューロンが働いていても、また言語や音楽等による諸影響が連動したとしても、さらにライブで単なる録音された音源と異なり、背骨の部位の振動共振(上部ほど振動数が高い)で更なる興奮や一体感が生まれたとしても、普通は行動している者とそれを見ている者とは混同したり混乱はしない。

■6■ここで1つ内と外を反転してみよう。普通に個々人の脳内で反響しあっているということは、人間種として同じ出来事が引っ繰り返って、各個人の相同の部位に表れていると見ることもできまいか。そもそも見ること聞くことの等の知覚認識も、個々の隔絶した内世界のみの出来事ではないのではないか。

■7■ミラーニューロンは言語でも活性化することが分かっている。例えば「手に取る」という言葉を読み聞きすると、脳内のそれに関わる領域が活性化する。これは言語の瞬時の相互理解(話している者が思ったことを瞬時に言葉にでき、かつ聞いている者も瞬時に理解していること)とも関係するのだろう。

■8■発した言葉のみでコミュニケーションする単なる低文脈言語ではなく、発する言葉以上に多くの内容を交換し合う高文脈言語である日本語とその背景そのものが、自己と他者、自己と世界を分断乖離することなく、言語空間も含めた環界の共有ができるミラーニューロン的な在りようなのではなかろうか。

■9■反転したミラーニューロンワールドで、あなたと私が見る同じ星と花と…。















 

日本語言語空間の内と外で共に生きる



■1■ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念で「環世界」というものがある。すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもち、独自の時間・空間として知覚される世界を生きているという考えだ。これは物心二元論の超越や、人文諸学と自然科学の両立不可能性の解消する道筋を開いた。

■2■言語もまたそのつかう言語によって物事の捉え方が変わり、世界の見え方が異なるという研究結果が出ている。言語と思考は互いに結びついていて、世界を知覚する際に、わたしたちは自分が使う言語の影響を強く受けている。同じ出来事を経験しても、その捉え方は使う言語によって違ったものになる。

■3■ではバイリンガルやポリリンガルの人はどうなのだろうか。複数言語を流暢に話す人々で実験したところ、被験者がその瞬間に使っていた言語によって変わることが明らかになった。使う言語によって自分の人格が変わると感じる人は多いが、実験の結果はそれが正しいということを裏付けているようだ。

■4■言語とは「音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現・伝達したり、他者のそれを受け入れ、理解するために用いる記号体系である」と定義されるものだ。個別言語では社会集団内で形成習得され、文化の特徴が織り込まれており、その共同体での社会的学習や人格を形成してゆく。

■5■言語はまた、生物学的には各「個体」的な在りようを超えた「種」の概念に似た捉え方ができるだろう。「ヒト」はいわゆる「人間」の生物学上の標準和名であり、狭義には現生人類を指すが、言語はその人種・民族・国家と重なる領域がある。言語は生物同士のように接触し、変化・吸収・絶滅もする。

■6■ここで再び「タタミゼ効果」を持ち出そう。外国人でも日本語を学び用いることによって、日本人のような柔らかく謙虚な性格になるというあれだ。外国語を学ぶとことは自我を大きく変貌させ、言語に合わせて人格も動作も、頭脳構造の枠組までも変わると米人類学者のハーバート・パッシンは言った。

■7■また彼は「日本語を話すたびに、自分はこんなにも礼儀正しい人間になれるものかと、自分で驚いてしまう。こういうことは、英語を話す時は一度も感じたことはない」とも言った。重要なのは、タタミゼ化した本人がそれを心地よいと感じ、闘争的・対立的な感覚が和らいだと感じていることであろう。

■8■文頭の「環世界」よろしく、内側だけから見ている日本語の言語空間では、それが当たり前だからさしたる不思議も感じなければ、感謝や敬愛の思いも湧きにくい。しかしその日本語を他の言語と併用した時の差異や、自らの身体にかろうじて残る日本人の所作を、より意識的に生きることは重要だろう。

■9■日本語は表現内容のみが情報記号として意味を持つ低文脈文化ではなく、言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される内容の方が豊かな高文脈文化なのだ。いにしえの古語を味わい、今ある日本語を丁寧に口にしてみる。漢字や外来語をも日本語として意識的に用いてみたい。














 

レトリックが無用だった日本語



■1■ざっくり過ぎる物の言いだけれど、日本語は基本的に比喩表現の必要が殆どなかった言語だったに違いない。もちろん後に中国から文字の用い方や仏教と共に比喩表現も入ってきただろうし、明治維新と言われている奇妙な開国の仕方の後も、西洋言語と共にさらなる比喩の語法や実例も多々入ってきた。

■2■しかし日本語がまだ「日本語」もしくは「和語」という言葉で名前を上書きされる以前から、和の心は比喩やレトリックを用いる表現とは異なる言語世界にあったのではないか。しかし日本語と日本人は外からやってくるものを拒絶したり否定したりすることなくうまく取り入れて、自らのものにできる。

■3■例えば「人称」というものは日本語の文法には今でもないけれど、それでも外国語を習得する時に1人称、2人称、3人称という表現を日本語にあてはめて考えることも、日本語をそれに当てはめて使うこともできる。私たちは誰でもその場にぴったりのオノマトペを自由自在に作り用いることもできる。

■4■隠喩や直喩と言う立て分け方も、西洋その他の言語の持つレトリックであり、日本人もそのように言葉をもちいることもできるけれど、本来「時は静止し、場は透明になった」と言った時、それは「…のようだ」と直喩に治せるものではなく、話者には実際に「時は静止し、場は透明になった」のである。

■5■西洋においては、現存する最古の文学作品といわれる『ギルガメシュ叙事詩』の中にもメタファーは多数あったし、新約聖書の中のイエス・キリストの様々な譬え話は(ブッダの相手に応じて自在に変えた喩話と共に)、西洋や世界の文学表現に多大な影響を与えている。だが日本語は必要なかったのだ。

■6■最初にメタファーについて言及したのはアリストテレスだ。「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである。」これは日本語には全く当てはまらない。日本語自体が既にメタファーだからだ。

■7■これは日本人の特質でもあるのだが、主語と述語という捉え方も元々なかった。内骨格的な言語である日本語は、いまやそのメタファーすらも用いて表現することができるのだ。精神分析を必要としない日本人の言語の特異性のひとつである。西洋言語的な発想のみでは理解しがたいところがあるだろう。

■8■試してみればすぐ分かるが、1人称や2人称をほとんど用いずに生活することは可能だ。西洋的発想に影響されて、情的なものは非常に個人的なものとして捉えがちだが、実は非人格的である。情緒は自我も含めた自己の回りで、身体感覚として存在する。それは理性で捻じ伏せようとしても叶わない。














 

「お金」と「言葉」は良く似ている



■1■「お金」と「言葉」は良く似ている。ちょい抽象度の高い話だけれど、それに付随する観念の在り方に相似性を感じる。現世の殆ど全ての人間は「お金」と「言葉」を、自らの意識の上で分離不可能なまでに一体化していて、それが本当にない世界で自分が生きるということを中々リアルに想像しがたい。

■2■もちろん差異や誤謬もあるという前提の話ではあるけれど。「お金で買えないもの」というものはある。しかしそれを手に入れるのにはやはり必要経費としてのお金はかかる。言葉で表せないものはある。しかし「言葉では表せない」と言語化することによって、それを表現しようとすることはできる。

■3■社会生活の中で、突然お金が全くなく、言葉も話せなくなったとしたら、不安や絶望感にさいなまれるかもしれない。これは他者があればこそのことであって、個人一人きりであれば生きていくのに葛藤はあるだろうが、それなりに生きていこうとはするだろう。それらがなくても「生」は残るのである。

■4■どちらも実体はないけれど、用い方によって「力」になる。それを使用するものによって、暴力にもなれば、恩寵にもなる。基本的には理性や知性で用いる以前に、情緒や情動が最根幹にあるものと考えられる。個人のみではどちらも不要であり、先ずは他者との交差交流の中で用いられるものであろう。

■5■いきなり「お金」と「言葉」、もしくはそれらを当たり前に存在するものとして疑わない人たちを批判したり否定したりするつもりはない。ただしそれらは用いる者がいなければ、全く無価値なものである。そろそろ資本主義的世界観や論理知性至上主義への自問の切っ先として考え始められるだろうか。

■6■これはまだ考え始めたばかりなので、実にラフな物言いだが、イメージするだけなら可能ではなかろうか。お金で成り立っている経済流通の流れからちょっと外れてみるとか、言葉を用いた思考や言動のない時間を意図的に自らに課してみるとか。可能とは言え、たやすく持続できるものではないけれど。














 

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