腰椎4番の日本人



■様々な日本文化と日本人に関しての論があるが、多くはイデオロギーや今の世界観からの逆読みや学問的価値に焦点が合わされている。現に今生きている個々人の感覚や心象から乖離しないよう、身の内にある「身体感覚」や、日常で普通に用いている「日本語」の中にこそ、未来へ続く日本を見ていきたい。

■人間の脊椎は頸椎(7)、胸椎(12)、腰椎(5)、仙椎(5)、尾椎(3〜6)の32個程の椎骨からなる。このうちの一番大きな椎骨である腰椎を、野口整体では身体動作の要と捉え、1番が上方向、2番ず左右方向、3番が螺旋方向、4番が下(開閉)方向、5番が前後方向のエネルギーの流れを持っているとする。

■河野智聖氏によれば、日本人の体文化が腰椎4番に焦点があり、エネルギーが下方に向かうのでより大地に根差した身体的特徴が生じ、草履や正座や畳文化が生まれたが、アングロサクソン系の人たちは上方向に向かう腰椎1番に特性があるので、ハイヒールやベッドや椅子などの文化が生まれたのである。

■上方運動の腰椎1番はアングロサクソンやインドの体文化。左右運動の腰椎2番は食文化の盛んな中国やフランスの体文化と対応し、身体を捻る運動の腰椎3番は韓国やラテン系の体文化と対応する。下方運動の腰椎4番は日本やロシアの体文化と対応し、前後運動を司る腰椎5番は黒人の体文化と対応する。

■腰椎1番は神経系を表し、上方運動、頭や首に関係する。腰椎2番は消化器系を表し、左右運動、感情や腹部に関係する。腰椎3番は泌尿器系を表し、捻る運動、体側に関係する。腰椎4番は生殖器系を表し、下方運動、骨盤や鼠蹊部に関係する。腰椎5番は呼吸器系を表し、前後運動、肩や胸に関係する。

■様々な身体の理論は専門家に任せるとして、ここでは河野智聖氏が実験から解明した、この腰椎の1番〜5番が、手の指と日本語の5母音とも対応しているということを見ていこう。関係は「あ・中指・腰椎1番」「い・人差し指・3番」「う・4番・親指」「え・2番・薬指」「お・5番・小指」となる。

■中指を意識しつつ心の中で「あ」を唱えると、体が軽くなり階段が登りやすくなる。あがった時に心のなかで「う」と発音し、親指を意識すると落ち着く。発声は腰と肝からとも言うが、腰骨とも対応している。古神道や修験道や武術の奥義には、「手印」や「真言・言霊」があり、深い関連を示している。

■もちろんこれらは総体論であって、それぞれがそれだけに対応するという狭義のものではない。タイプ論として理解すればよいと思う。個人を国や社会という共有幻想に帰属させようとする世相の中ではあるが、真の日本・日本人は内と外が反転したそれぞれの豊かな場所の中にこそ立ち現れるものであろう。












 

体の1軸2軸と日本国



■今はイチジクだが元々はニジクだった。イチジクは無花果と書くが、そちらではなくて軸が一本の一軸のことだ。現代の歩き方は一軸運動だが、江戸時代まで日本人はなんば歩きをしていた。なんば歩き。ありていに言えば右足を出す時に右手を出し、左足の時は左という、二本の平行線を辿る二軸運動だ。

■歩行での中心軸による「一直線歩行」と、二軸による「二直線歩行」が基本形となる。一直線走歩行は、骨盤と肩を左右交互にねじりながら足をクロスに動かす。ところが二直線走歩行は、骨盤の幅を保持したままそれぞれの足を直線的に運ぶ。一直線走歩行でのロスを取り除いた走歩行と言えよう。

■後ろ足で地を蹴って進むのではなく、前に倒れる力を利用して進む。剣道や古武術はこの動きである。飛脚もこの走り方をしていた。昔の人はこの動作を日常にしていたから、体を捩じらず着物も着崩れなかったと言われる。それは過去の話ではない。歩き始めの幼児を見るとそこに二軸歩行を見て取れる。

■この二軸歩行の動きは意識してすぐにできるものではない。動きばかりを気にしていたらなかなか歩けない。しかし私たちは歴史的にも個人的にも、この歩き方をしていたのである。明治の開国でそれが抹殺されてきたなどという陰謀論には組みしない。私たちの言葉や文化同様、身体の中に残っているのだ。

■武術や古武道に限らず、サッカーやバスケットボールの選手でも二軸の動きを基本にしていると、片方の膝を抜くだけで方向を変えられるので迅速性が増す。これもまたどちらが良いではなく、どちらもできるに越したことはないだろう。ただしこの場合の1と2は、2は1を兼ねることができるが逆はない。

■これは身体感覚における1軸論と2軸論だが、どこかに唯一の中心があると考えるのではなく、2つの中心(この場合は軸)が相補的に一体となって固着せずに安定して進むというのは、個人的な成長やチームや自治体から国のカタチまでに通して言えるだろう。古代からアジアの帝国はみな二重国家だった。

■歴史的に見れば日本という国は、精神的中心である天皇制と、現実的中心である時々の権力者の2軸が、1軸に収斂(独占)されぬまま、2つの焦点がある楕円として維持されてきた。不敬表現ではあるが、天皇の系譜が途中で乱れたり挿げ替えられていても、2重螺旋的相補性として見れば問題はないのだ。













 

ロング・ボディ、ロング・ライフ



  

■リバースモード真っ最中っぽく、過去の画像を恥ずかしげも無く(…いや恥かしいよ!)晒しているのは、実はウィルコックの"The Synchronicity Key”と、キャンベルの『時を超える神話』の中で、ほぼ同時に霊体や転生の間の自己イメージは35歳として顕現するという表現が出て来たからなんだよね。

■そこで35歳頃の画像を探したんだけれど、アルバムとかは実家に有るので、手元に有るわずかな写真の中では、この1990年3月31日のタイムスタンプが付いた画像が一番近いのかな。若かりし頃の自分を懐かしんでいるわけではないが(あ、正直皆無ではないかな)、もし霊界とやらではこんな感じなのか?

■真剣に考えている方には申し訳ないけれど、私は霊界とか輪廻転生とか、実はかなりどうでもいい。個人的に有るのか無いのかと問われれば、4値論理的に有るとも言えるし無いとも言えるというのが正直な答となるのだが、問題なのは人生70年として、霊的表象がその真ん中の35歳と言う論理の方である。

■放射能や異常気象その他が突発しているが、日本人の最近の平均寿命は天王星公転周期に近づく84年弱だから、それならば私は42歳説を勝手に掲げるが、世界に対する謙虚さと敬愛があれば、若さと進化の可能性はいつまでも無くならないと、この歳になっても精神年齢は20歳で止まっている私は思うのだ。

■ちなみに特にストーリーとは関係なく勝手に晒してしまった画像の登場人物は、BOBとも非常に親しかった長野在住のY島君の妹さんとその娘、及び嫁さんと娘と息子である。この幼な子たちもすでに立派に成人している。井の頭公園周辺でこの子たちとも随分遊んだけれど、それは昨日のことと等距離だ。

■もう1つ言えることは、歳を取ってみて始めて分かることが沢山あるということだ。20歳前に私は20歳を超えても生きて行ける人たちの気が知れなかった。詩人キーツが25歳で夭折したと知っても、爺ぃじゃんと思っていた。単なる無知でもある。20歳過ぎても30歳過ぎはシリトーのせいで信用しなかった。

■40代はもう中年で、50代は体にガタがきて、60代はもう老人だと思っていた。これは2012年以後が見えなかった時代の無明性にも似ている。ネイティヴアメリカンの世界観のなかで、誕生から死までの体全体のことを意味する「ロング・ボディ」と呼ぶものがある。一生全体を貫く1つの体と言う概念だ。

■三半規管や眼球を動かす筋肉など、3軸直交の知覚器官を持つ身体では、刻一刻の今はそのロング・ボディの断面しか自覚できないけれど、それでもアイデンティティだけでなく確固とした一生の一部、私が今私と思うものも含む未知の全体たる私の総体を想定すれば、その時その時を生き切る楽しみもある。

■若い人たちが、もし心身が凹みへし折れそうになって、「こんな人生に生きる価値があるのだろうか?」という自問が湧いてきても、それは生き切ってみて始めて云々できるものであり、ロング・ボディの断面での失神気味の苦痛回避的妄想かもよと、痴呆老人のふりをして囁くことができる歳になったなあ。

■ぼけ爺さんのふりをできる年まで生きてきてよかった。昔の日々も今後さらに輝くというものだ。晒す恥もあらばこそ。みなさん、このコウカツではなくコーコツのじいちゃんを私は責任持てないので、どうぞよろしくお願いします。












 

男女骨盤の恥骨下角とプラトン立体




■男性と女性の骨盤の形が大いに異なるのは良く知られている。女性の骨盤は男性と比べて平坦で広い。男性ではハート形を呈するのに対して女性では卵円形である。図に示したように左右の恥骨弓の開く角度を「恥骨下角」と言う。男性の恥骨下角は75〜90度であり、女の恥骨下角は90〜125度である。

■正4面体の2面角は70.5度であり、中心角は109.5度である。この直角90度からプラスマイナス19.5度の2角は、正6面体の中心角と正8面体の2面角としても現れている。なお正6面体の2面角と正8面体の中心角は共に直角90度である。当然ながら、この70.5度と109.5度は合わせると平角180度になる。

■さして根拠のない直観的なことだが、男性の理想的な恥骨下角は70.5度であり、女性の理想的な恥骨下角は109.5度なのではなかろうとか?ものによっては60度と90度などと書いてある資料もあるし、これは単なる駄洒落的な数合わせかも知れない。しかし幾何学的に見て取れる数であるのは理に叶い美しい。

■友人の小林秀樹氏が「正8面体と正4面体の頂点上部からは、XとYに見えるけれど、性染色体もXXとXYですね」とコメントをくれた。さらに個々人の男性性と女性性を恥骨下角で象徴して考えれば、それぞれの男性性と女性性が調和した男女が1つになると、それは完全なる円に通じる360度となる。

正8面体の各頂点は全て3本の線が集まっている「Y」の形であり、
正4面体の各頂点は全て4本の線が集まっている「X」の形である。

男性の70.5度 +その内面的な女性性109.5度=180度
男性の109.5度+その内面的な女性性70.5度 =180度


■これはまだ比喩であり、単なる思い付きに過ぎないかもしれない。骨盤は良く動くし、固定したものではないが、今後さらに見ていく必要がありそうだ。ご専門の知識がある方、どうぞツッコミを宜しくお願いいたします。













 

自分の身体は所有物なのか?



■1■昔から「なぜ自殺してはいけないか?」もしくは「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題に対して、明確で腑に落ちる答をした人を残念ながら知らない。と言うか問いそのものががさつ過ぎるという思いがあるが、能動的に他者にその答を求めるつもりは殆どないというのが正直なところである。

■2■生死の問題まで行かずとも、若い女の子が「自分の体だから何をしようと私の勝手でしょ?」と言う時、それに対して社会通念や人間的倫理の問題を提示してもその心は変えられない。変わっても、近親者の悲哀や恐怖で脅かしてその考え方を引っ込めさせんとする、洗脳に限りなく近い結果ではないか。

■3■さて「所有」という概念は元々は存在しなかった。アプリオリなる所有と言う妄想は散見できるが、地球上には本来所有と言うものはなかったし、今現在も実は単なる幻想共有で、そんなものは元々無いとも言えよう。個人として自らの身体を所有しているという思いも、幻想だと言えば抵抗はあろう。

■4■しかし天災や人災でその所有していると思っていたものを、何の代価もなく突然奪われる時に至って、ようやく確かにそれは思い込みに過ぎなかったと実感しても、時すでに遅しだ。まず自分のものである・ないという2値的思考を離れて、どちらとも言えるし、どちらでもないとも言えるで行けまいか。

■5■自らの身体の所有は何ものによって保障されているのだろう。いやまず先に、自らの身体が自然に動かせるということ自体への驚きに始まる、感謝や喜びがそこにあるだろうか。人権を主張すれば、国家や他者がそれを守ってくれるという幻想や、権利は守られて当然だという発想自体を自問してみよう。

■6■喜びや至福感を感じないまま、自分の身体を奴隷や機械のように使ったり、ペットのように愛玩してはいまいか。自分自身は本当に身体より優れた存在なのか?もしくは身体と不離不即なのだろうか。身体は自分自身をかけがえのないものとして、全存在で慈しんでくれているという自覚は在るだろうか。

■7■己れの身体というものを随意に動かせると思い違いしている者は多いけれど、思い通り動かせているのはほんの一部だ。むしろどれだけ多くの部位や細胞が自分を生かし動かしてくれていることか。もしお好みならば、心や魂や霊を想定してもいい。あなたはそれの一部なのか、全部なのか、外部なのか。

■8■重い病や不自由な部位があったとしても、それでも体は自分が自分として定格できない私に対して、どれだけの愛情や慈悲を持って支えてくれているのだろう。自らの命を自力で断つ自由を所有するという自分というものを明確に提示してほしいものだ。愛されている実感がないからぞんざいに扱える?

■9■そんな自分自身に対してすらも嘘偽りなく、意識連続体として、生命として維持存続してくれている、少なくとも自ら抱きしめることもできる物質的な身体を破壊させるしかないような状況や社会であれば、まずそれらに対して純粋に抵抗し、変革していくのが筋ではなかろうか。自分の中の社会や状況。

■10■そしてここまで来て1つ反転する。自分のものであろうが無かろうが、その自分の身体はまさに文字通り自分自身でもあると解することだ。2値では自分を所有する自分はパラドクスでしかない。4値ではそれは自然なことになる。そして所有される私ではなく、所有する方も込み込みの私になればいい。

■11■最初に言った通り、所有という概念そのものに重きを置くことなく、何の保証もないままであろうとも、身体そのものの慈悲を感じつつ、敬愛をもって接することの方が、外部に神や仏を設定しなくても、どれだけ恩寵に満ちた領域の中で生きて行けることだろう。そしてそこがゴールでなく、出発点だ。












 

背中合わせのハグ

    

■先日すみれのお宿でやってみた、ましましさん推奨の背中合わせで座って相手を感じる「背中あわせのハグ」。実際に相手が異性であっても、よく知らない人でも、見えないので恥かしさやら気遣いやらほとんどすることなく、背中の温かみや信頼感などをじっくり味わえる、素敵な御挨拶の方法だ。

■やってみて感じてなんぼの世界だけれど、信頼できる味方に「背中を預ける」という言いかたで、360度ぐるりと囲む敵と戦う武士の、背後の盟友の180度を信頼しきって自分の前面180度をやりきる心地のようなものも感じ取れそうです。温かいんだよね。何かが流れて巡っている感じで。

■そうしたら私の前にいた渡名喜の順ちゃんがいきなり足の裏を足の裏にくっつけてきた。そうそう、彼女はヨガの先生として大人気だったひとで、リフレクソロジー的な世界も詳しいし…とか思っていたら、背中側から足先を伝ってそちらに、また逆の流れもありで、何かが流れ始めた事を感じる。

■それを行ったらあっという間に、「背中合わせで人間温泉」(^^)を体験していたみんなが、われもわれもと足と背中を連結して繋がってしまった。「ムカデ人間」というしょうもないビデオがあったが、こちらは真逆の気持ちよさである。愉快なエネルギー直列人間。しのごの言わずにやってみそ。

■いにしえの文献の中とか、最新の身体ワークのどっかに在るものかもしれないけれど、そんなことは知らないままに、すみれのお宿で偶発的に開発された、生命エネルギー遊び。ボディワーカーの方々には、是非これをみんなでやってみて、もっとクリーンナップしたりしてほしいなり。面白い。



■そしてこれが、逆方向から見た図。おやっ、よく見るとましましさんの背中に少年がっ(笑)。背中合わせで会話をすると、面と向かっての会話と全く違った感じがする。自分の頭をぐるりと回って声が届くので、方向感覚が頭では分かっていても、実際に聞く感じとちょっと違う。

■首を90度ほど回して同じ方向を向いて話をしても、同じ方向の景色を見ながら、体だけは背中で接している体感があるので、離れたまま同じものを見ているのとも違うんだよなー。足の裏合わせと言う合わせ技も合わせるとすごい。人の背中を心地よく感じられる時、自分の背中がより愛しくなる。

■少し慣れてくると、相手と90度ずつの寄り掛かり具合ではなく、ぐい〜んと体を伸ばして相手に乗りあがってみたり、逆に相手のぐい〜んの下になって、その感じを味わってみたりすると、何かとても楽しい空間になる。これはもっともっと頭だけでなく体感して深めてみる価値があると思う。

■背中合わせで視覚情報に惑わされずに感受できれば、人の印象が自分の思い込みや未知への不安などで大きく歪曲しているのが分かる。色々と興味が尽きない。みんなで楽しんで普通にできるようになれば、背中同士の感覚も磨かれるということだ。観念だけでなくぬくもりからも世界が広がる(^^)。












 

胎盤についての4題


     ■1■オランダの胎盤食

■様々なマイナーな文化はあると思うが、欧米では基本的に胎盤や付属物は不可思議にして不浄なものとして扱われているというイメージがある。しかしオランダには胎盤を食する者がいるという。もちろん普通のオランダ人は食べないが、ベジタリアン(特に厳しい戒律のあるインド系やインドネシア系のベジタリアン)には胎盤レシピというものがあるらしい。

■ベジタリアンが菜食なのは、生き物を殺さないという信条からであろう。確かに胎盤は生命を殺すものではなく、守り育むものである。そしてその役目を終えた後は自然消滅しゆくものだから、確かに不殺たるベジタリアンの戒律に反しない。そこには男が頭だけで、そして女が感覚だけで捉える以上の、自らも巻き込まれて生命の本質に迫る世界観が存在する。

■日本の中で生きているだけではなかなかそのような発想に至らない。食することに関してトライしてみるにしても、まれな食材だからとか、どう調理したら美味しくなるかという発想に傾き、生命の連鎖や古代より重畳する構造や形体とそのその意味などについて深く思いを馳せることは少ないだろう。ベジタリアンが食する胎盤は、単なる肉片ではないのだ。

■そのオランダでのレシピだが、一般的にはシチューにするらしい。カレーの具としたり、野菜と一緒に炒めたりするらしい。レバーとして捉えると違和感はないとも言う。日本的な調理感覚では、塩焼きレバー焼かショウユだれでレバ刺し。家族・親戚一同集って会食するのだが、私は直接見てすらいないまま語る私には、その共有する神聖さは想像もつかない。





    ■2■バリ島の胎盤と父親

■風習やマナーその他にいくつものバリエーションがあるので一概に語れないが、バリ島では胎盤のことをアリアリと呼んでいる。バリ島では出産を終えた後、胎盤を旦那さんが家に持ち帰り、敷地内の所定の場所に埋める仕来たりがあるそうだ。自宅出産でなく病院出産であっても、病院も当たり前のように血まみれの胎盤を包んで持ち帰らせてくれるらしい。

■この胎盤は、子供の父親以外は触ってはいけないことになっている。優しくきれいに手洗いで血を洗い流してから、ココナッツの殻の中もしくは専門の壺皿にそれを詰めて土の中に埋める。その後地面に石を置き、その子供の守り神として毎日お供え物を捧げる。バリ島では胎盤は、その子を生涯守ってくれる兄弟のような存在だと考えられているからである。

■埋葬後12日目のウパチャラという儀式までの間、一晩中灯りをともし続ける。赤ちゃんとアリアリは一心同体であり、胎盤は常に子供を見守り続けているのである。子供の意識や健康がおかしくなりかけた時は、その胎盤を埋めたところにお供え物すると、不思議と健康に戻るのだそうだ。バリ人は異郷や異国に行っても、必ずアリアリが埋まる地に戻ってくる。

■現代の日本で病院出産する場合、胎盤は捨てることが多い。むしろ日本で大事に持って帰るのはへその緒の方だろう。バリでは胎児と胎盤は双子の兄弟だと考えられているが、日本では後産として出てくる胎盤や膜はエナといわれ、汚れたものとする捉え方が多い。男は出産の場から遠ざけられることが多く、父親がバリのように胎盤と接することは稀であろう。




    ■3■肉食はどちらだ?

■胎盤の定義は「有胎盤類等の雌の妊娠時に、母体と胎児を連絡するために子宮内に形成される器官」である。あまり興味のない男などが、この文章の「母体と胎児を…」を「母体が胎児を…」と読み間違えたままでいることがある。胎盤は母体が作るのではなく、あくまでも胎児由来の器官である。胎児にとっての子宮との関係と胎盤の関係は根本的に異なる。

■「胎盤」の存在を無視して「子宮」だけが胎児を育み子を産み出すと思い込んでいる場合、子宮で育んだ我が子や一族の子供を守るためなら、それを脅かす存在を敵として戦うことを母性本能として正当化してしまう視野狭窄に陥ることがある。この男性的社会の終焉の時に、生命の敵と戦うという名目で暴走する男性的生き様に染まらぬ自戒が必要であろう。

■ここでは化粧や美容に対するコメントは差し控えるが、自らが若く美しくありたいことを、女性の自然な権利または根本的な業として正当化し、そこに自問や譲歩の余地がない人もいる。化粧や美容にほとんど時間を割かない人もいるが、本来二而不二である胎児のために存在していたプラセンタを、自らの若さや美しさの保持のために平気で使用する者もいる。

■神聖なるものとして丁重に扱い、心してその一部を食することもあるという接し方とは、根本的な姿勢において大いに異なるところであろう。自らの利のためにのみ用いるということは、それを作り売るものも含めて、とめどなき肉食より愚劣な部分があるのではなかろうか。東南アジアや国内の人間の胎盤を用いているプラセンタ注射は献血できないのである。


)現在日本で認められているプラセンタ注射アンプルはラエンネックとメルスモンのみ。ラエンネックのメーカーの弁では、胎盤は提携する日本の産婦人科で日本人の妊婦の了解を得て入手しているとのこと。メルスモンも同様と考えられている。日本赤十字社の東京都血液センターによれば、感染事例は未報告だが理論的なリスクが否定出来ないために、献血をご遠慮させてもらっているとのこと。



    ■4■胎盤的な植樹葬

■バリ島に限らず、出産の時の胎盤を胎児の半神として丁重に扱い、土に埋めて儀式を行う風習は各地に存在する。特に統一された形態があるわけではないが、それらの中にはおそらく埋めた胎盤の上に樹木を植えるところもあるであろう。その子の成長とともに樹も育つ。先日ましま氏と日本の臍であると言われている諏訪の地でこの辺りについても語り合った。

■そもそも胎児の片割れとして捉えられていた胎盤は、おなかの中での役目を終えて、物質としては地に帰るわけだが、3次元的な生命存在として代わりにそこにある樹木は、その子だけの半身であり、その地はまたその子だけの聖地でもある。時と所を超えて自らの胎盤と繋がっており、またその胎盤の一部を食した家族や血族とも時空を超えてつながっている。

■私はここにさらにその子が成長して生命を全うして死を迎えた時、その成長しているであろう木の元に埋葬されるか、墓地に埋める代わりに他の選ばれた土地でその木を用いた植樹葬をするのもよいのではないかと思う。もちろん樹木の種類も限られるだろう。残されたものは、その他界した者が新たなる次元の胎盤と、再び二而不二の関係となると解釈する。

■同型対応視すること、無理やりあてはめることとは似て非なるものである。例えば「月は地球の胎盤である」という言明。ある者には意味の無い文字列であり、ある者にとっては単やる言葉のダジャレと捉えられ、またある者には大いなる未来へのヒントとなる可能性もあるだろう。様々なところに「胎盤」なるものの比喩・暗喩を見る試みは有意義であろう。













 

腕のなかの内惑星軌道

■地球暦の内惑星メインのサイズは正確に1兆分の1スケールである。火星軌道直径は古代の計測単位1キュービットにほぼ等しい。1キュービットは肘から指先までの身体尺である。私たちの身体は黄金比を1つのベースとしてそれぞれ微妙にずれているので個人特性としてのバリエーションとなっている。

■しかしざっくり言って私たちの肘から指先までは火星公転軌道直径にほぼ等しい。さらに言えば、肘から手首までは地球公転軌道直径に等しく、さらに手首から指先までは金星公転軌道直径に、そして指の付け根から指先までは水星公転軌道直径に等しい。全くの人ごとではない。私たち自身の身体の比だ。

■性差や年齢差、さらには身体が大きい人も小さい人もいるけれど、人間の身体の各部分の全身との比はほぼ決まっている。そしてその比がまた惑星の公転軌道長と関係があると捉える事はまったくの愚考ではない。頭長も足裏長も地球軌道直径である。しかも実物の太陽系の1兆分の1スケールなのである。

■己の掌を合わせて合掌する時、内側から自分自身に合掌し返してくる何か…自分が自分であると認識できていない「未自分」…がある。反転して反転して、身体はとても高次の在りように思える。身体をもっと大切に扱い、他人の身体も星々や太陽系そのものとして敬意を持って接したいと思う。そしてそこに顕現している生命と精神そのものをも。

■かつてドランバロウ・メルキゼディクはケプラーの星型8面を身体に重ねてマカバフィールドと称し、そして身体の周囲に直径17mほどに広がったエネルギーフィールドがあるとも表現していたと記憶している。これは計算すると大体海王星軌道に近く、冥王星もそこに含まれるエッジワース・カイパーベルトの内縁直径の1兆分の1に近似している。

■これを精査するのは開知クンにでもまかせるとして、ここでは各個人が中心の太陽にも相当するというメタファーを提示したい。ところで今気がついたけれど、自分のロン毛が火星軌道直径の1/1兆になっとる〜。そろそろ切らにゃあアステロイド〜(最後ちょい意味不明…笑)。














 

身体周囲の空間質の差異



■1■身体感覚というものを、武道家や舞踏家、気功師や整体師、真のスポーツマンや身体研究家などでない限り、とことん追求してみることはあまりない。しかしスポーツや武術、舞や芸能などを齧ったことがある者ならば、自らの身体の随意なる部分と不随意なる領域があることをよく知っている。そして自らの身体の届く空間とそれ以外の空間の質が異なるものであることも。

■2■自らが立ち止まったまま身体が届く範囲の空間を、武道家は自分の間合いと言った。刀や槍などを持つ武芸者には、そのエモノを身体の延長線上として捉えて、その届く空間を自分の間合いと言った。瞬時に踏み込みまた身を翻す空間移動能力も含めて、誰にでもおのれの間合いはある。眼力や聴力、時には嗅覚や直観力も含めて、自らの持つ空間とそれ以外の空間があった。

■3■もちろん視覚の届く範囲もその人の全空間である。全ての空間は共有しているつもりだが、視座が異なるために空間質はみな微妙にもしくは大いに異なる。相互信頼する武芸者は互いに背を合わせることで世界全てと立ち向かう覚悟を持つ。自らの眼前の的は背後の戦友の的であり、自らの真の敵は戦友が対峙してくれている。遠当ての及ぶ空間と及ばぬ空間の差異を知る事。

■4■自らのかみあう自らのカミはどこにいるのか?「どこ?」という問いそのものがガサツ過ぎる。「どのように在るのか?」という問いの「在る」という語義を定めぬままの自問は空中で定まらない。新しい言葉をつぎつぎに作り対応させていく戦略と、詩人のように既存の言葉を用いて全く新しい意味を吹き込む戦略とがあるとしたら、私は後者で未知を愛しつつ進み行こう。













三半規管と眼球運動


■1■恥ずかしいことだが、PCが自動変換してくれるので最近まで「三半規管」のことを「三半器官」とうろ覚えしていた。「三半規管」とは半規管が3つという意味だ。では半規ってなんですか。「半」は文字通り半分であり、「規」コンパスのことだ。半分の円の管が3つあるから「三半規管」である。

■2■正確に言えばこの「三半規」つまり前半規管・後半規管・外半規管の3つが、内耳の一番奥でちょうどX軸・Y軸・Z軸のように互いにほぼ直角に交わっている。その内部はリンパ液で満たされており、どの方向の回転運動に対しても内にあるクプラ器というものが感知して中枢に伝える仕組みである。

■3■私たちが共有しているこの3次元空間で平衡感覚を正常に保つには、この三半規管が健全でなければならない。しかし三半規管構造そのものが3軸直交で空間内での身体姿勢を把握するのであれば、水平180度を90度+90度だけでなく70.5度と109.5度として捉えることは、そもそも不可能事なのだろうか。


      外眼筋とは〜眼球の動きとベイツ理論「視力回復の研究ノート」より。
      http://www.me-kaiteki.com/eye-mechanism/external-eye-muscle.html

■4■アスリートや武道家や舞踏家などの身体機能を磨く者は別として、便利な移動手段や通信手段が増えて身体を過酷に動かさずにすむ生活環境の中で、現代人の三半規管そのものが衰えてきているという。これはただネガティブなだけの現象なのだろうか。それとも直交3軸の縛りの解けでもあるのだろうか。

■5■身体を平衡に保つには視覚情報も重要だ。眼球の動きは外眼筋と総称される3対6種、左右で12の筋肉の収縮連動によってなされる。上直筋と下直筋が眼球を上と下に動かし、内側直筋と外側直筋は眼球を内と外(左右)に動かす。そして上斜筋と下斜筋は眼球を斜方に動かしたり、回転させる役割がある。

■6■眼球を動かす外眼筋は眼球の外にあるが、これに対して眼球の内部には内眼筋というものもある。光量を調節する「虹彩筋」と、レンズである水晶体の厚みを調節する「毛様体筋」の2種類がそれだ。眼球を介してものごとを見るには、その内と外双方にある絶妙至極な機能が健全でなければならない。


            (※) 日々のアップロードの隙間の都合で移動(eritten on 20120328)












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